Japan Folk
カレッジフォークの隆盛
日本にフォークソングという様式が持ち込まれたのは1960年代初頭。まずブラザーズフォー、キングストントリオ、PPM、などの曲が、洋楽のヒット曲として輸入されたことに始まります。例えばブラザーズフォーの「北京の55日」などはよくラジオで、掛かっていたと記憶しています。と同時にボタンダウンのシャツに、コットンパンツ、JFケネディーを真似たクールカットのファッションが、日本に上陸してきました。
そんなアイビールックに身を包んだ学生たちが演奏するので、カレッジフォーク、もしくはキャンパスフォークと呼ばれます。これらがブームとなったのは1966年に和製フォークの第一号として、マイク真木の「バラが咲いた」がヒットしてからのことです。フォークと言えば自作自演、又はトラディショナルなメロディを、アレンジしたものというイメージがありますが、この曲は作曲家、浜口庫之介の手になる作品でした。マイク真木に続いては、森山良子「この広い野原いっぱい」、ブロードサイドフォーの「若者たち」などカレッジフォークがヒットしてゆきました。
これらの流れとは別に真摯にモダンフォークを研究していたグループも沢山いました。殆どが大学サークルを中心としたものであって、石川鷹彦が在籍していたフォークウィンズ、ブラザーズフォースタイルのフロッギーズ、瀬戸龍之介や吉川忠栄がいました、ニューフロンティアーズ、PP&Mスタイルのフォアダイムス、景山民夫がベースを弾いていたことでも有名なモダンフォーク、フェローズなどがいました。
その中でも名門中の名門がカレッジフォークの草分け的な存在の、モダンフォークカルテットです。メンバーは麻田浩、重見康一、渡辺かおる、そして真木壮一郎(マイク真木)の4人です。麻田はその後トムスキャビンを主催し数多くの海外ミュージシャンを、招聘することになります。もうひとつのグループがPPMフォロワーズ。彼らはその名の通り、ピーターポールマリーを忠実にコピーしていました。
それだけでなく、早くから日本語のオリジナルソングを手がけました。他にも「バラ色の雲」をヒットさせるヴィレッジシンガーズは、元々カレッジフォークの出身でフォークロックスタイルが得意でした。又、カレッジフォーク周辺で歌っていた伊藤きよ子はアメリカのフォークグループ、ニュークリスティミントレルズのオーディションに合格。約半年間、同グループの正式メンバーとして歌っていました。
カレッジフォークの最大の受け皿となっていたのが、東芝エキスプレス。このレーベルの設立は1967年で他と比較してかなり初期のものとなります。東芝はカレッジポップスという言葉を使っていましたが、このレーベルから、ザ・リガニーズ「海は恋してる」、フォーセインツ「小さな日記」、フロッギーズ「そこに山があった」、万里村れいとタイムセラーズの「今日も夢みる」、ノイズハミング「青い世界」などがリリースされました。
カレッジフォークの名門バンド出身のグループも少なくありませんが、日本語のオリジナル曲となると絵空事を歌った曲が多く、稚拙さがありました。このあたりがお坊ちゃん&お嬢ちゃんのフォークと呼ばれてしまう要因です。そのカレッジフォークへのカウンターの如く登場してきた関西フォーク勢。彼らはカレッジフォークを駆逐してしまう結果となります。