Japan Folk

六文銭/小室等

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JAPAN FOLK
六文銭/小室等
メッセージ性のある
フォークの成果
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及川幸平、四角佳子、こむろゆいは六文銭'09を結成し、ライブ活動を精力的に行います。フォーク界の長老小室等。2011年に音楽活動50周年を迎えましたが、彼の音楽スタイルは一貫して変わりません。それはメッセージ性のあるフォーク・ミュージックです。1970年代初期に反戦・自由を標榜し、関西を中心に一世風靡したメッセージフォークの事ではありません。彼はその当時から別役実、大岡信、谷川俊太郎、白石ありす等の劇作家や詩人とコラボレートした作品を発表しています。

特に谷川とは1976年に「いま生きているということ」を発表し、その不変で美しいメッセージは今も輝きを放っています。そもそも米国のフォークを日本に紹介したのは小室です。キングストントリオやPPMに感銘を受け、1960年代初期から音楽活動を開始します。その後モダンフォークの教則本を発売し、その普及に努めていましたが、独自の音楽を模索し始めました。その頃から始めた現代詩とのコラボは米国のフォークを換骨奪胎し、メッセージを持った日本語の音楽へ変換する試みです。それが彼の音楽の原点でしょう。

1968年、そういった彼の作品を表現するために結成されたグループが六文銭です。PPMフォロワーズを母体に結成された六文銭は幾度かのメンバーチェンジを繰り返し、1971年に上条恒彦と組んだ「出発の歌」が第二回世界歌謡祭でグランプリを取ります。曲は大ヒットとなり翌年に小室等、及川恒平、原茂、橋本良一、四角佳子のメンバーで、アルバム「キングサーモンのいる島」をリリースしますが、その直後解散します。

短期間でありましたが、六文銭の残した功績は、及川恒平という希代な作詞家を生み出したことでもあります。六文銭の唯一残したオリジナルアルバム「キングサーモンの島」は全曲及川恒平の作詞です。小室は彼に絶大な信頼を寄せ、このアルバムを製作したに違いありません。というのは、小室が関わったアルバムで全曲同じ作詞者は、詩人を除くと及川しかいません。実際彼が作った詞は40年以上経っても古びていません。

小室は1979年シングル「寒い冬」をリリースした際、TVに出演しヨネヤマママコとパフォーマンスを行います。その時の彼女の言葉が忘れられません。「今は意味の無い歌が多い。彼の歌には意味がある」。


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六文銭
「キングサーモンのいる島」
ベルウッド
1972年
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作詞を全て及川恒平が手掛け六文銭のベストメンバーで制作されたファーストアルバム。彼らの才能が開花した日本語フォークの金字塔的作品。ファンタジーな(1)(8)(10)、アイロニカルな(4)(6)など及川の詞は変幻自在です。特に(5)のスリーフィンガーピッキングが紡ぎ出す夏の情景描写は今も瑞水しさにあふれています。かしぶち哲郎、柳田ヒロ、武川雅寛等が参加。かしぶちのメロディアスで非凡なドラムが特に印象に残ります。

1. キングサーモンのいる島
2. 私の家
3. ホワンポウエルの街
4. 小さな動物園
5. 夏・二人で
6. おもちゃの汽車
7. 春は日傘の
8. サーカス・ゲーム
9. 流星花火
10. インドの街を象にのって


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六文銭
「六文銭メモリアル」
ベルウッド
1972年
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このCDはどの曲を聴いても時代性を感じさせません。年月によって左右されない歌を作ろうとしたいたことの現れです。これは1972年7月新宿厚生年金でのライブ及びスタジオ録音を収録した実質的なラストアルバムです。別役実、高橋照幸、流山児祥等、彼らの作品も収録し彼らの幅広い音楽性と文学性が堪能できます。彼らのルーツであるPPM、メラニー等のカバーも収録。若き日の加納典明が撮った有終の美を感じるインナー・フォトも美しいです。

ディスク:1
1. 思い出してはいけない
2. 夢のまた夢
3. 追放の歌
4. それから
5. ネコの歌
6. 私はスパイ
7. へのへのもへじの赤ちゃん
8. 海賊の歌
9. 面影橋から
10. さよならの歌
11. 雨が空から降れば
12. ひとりぼっちのお祭り

ディスク:2
1. 長い歌
2. In My Life
3. お陽様はどちらからのぼるのですか
4. リンゴの木
5. 今日はいい天気だな
6. まわる
7. 街と飛行船
8. こわれました
9. ロック天国
10. 無題
11. この大空に捨ててしまおう
12. 傷ついた小鳥


三上寛

1950年3月20日、青森県北津軽郡小泊出身で父は地方公務員。高校に進学してから同郷の寺山修司などの影響を受け、詩に興味を持ち始めます。そんな時期に父が他界しそれまでの人生で経験したことのない衝撃を受けます。1967年に処女詩集「白い彫刻」を制作しのちに寺山修司にわたり、褒められたと聞いた彼は大きな自身を得ます。高校在学中からバンドを結成しオリジナル曲も演奏します。

その後青森県警察学校に入学しますが、間もなく退学します。1968年の秋には上京し憧れの寺山修司がいる天井桟敷に連絡を取ります。住まいが決まっていない彼は板前として働きながら、カルメンマキの家に居候していたこともあります。渋谷の「ステーション70」で引き語りを始めたところ、ジャーナリストばばこういちに気に入られ、デビューが決まります。1971年4月に日本コロムビアからファーストアルバム「三上寛の世界」が発売され、永山則夫について歌った「ピストル魔の少年」が問題視され、間もなく自主回収となります。その後「三上寛の世界」の6曲にさらに4曲を加えた変則的な内容のセカンドアルバム「三上寛のひとりごと」が1972年に発売されています。

1971年8月に中津川フォークジャンボリーに出演し、客席の怒号にギター1本で演奏する猛烈なパフォーマンスを展開し、一躍その名を轟かせました。そしてURCへ移籍し、1972年4月には「ひらく夢などあるじゃなし/三上寛怨歌集」をリリースします。この後、実況録音盤「コンサートライブ零狐徒 三上寛1972」(1972年)「BANG!」(1974年)と傑作を連発します。寺山修司が監督した「田園に死す」に出演したのを皮切りに、役者としての活動も活発になってゆきます。

ビクターに移籍してからは過激さがなくなってきます。「青い炎」「寛」(ともに1975年)「夕焼けの記憶から/三上寛青森ライブ」(1977年)の3作を残しています。ベルウッドから「負けるときもあるだろう」(1978年)を出した後は東芝に移り、ポップ路線に挑んだ異色作「Baby」(1981年)を発表。1990年以降はPSFから続けざまに作品をリリース、石塚敏明や吉沢元治、灰野啓二らと共演しました。


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「三上寛の世界」

コロンビア/プロペラ

1971年

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「ピストル魔の少年」が原因で回収されたアルバムですが、歌詞の衝撃度では他の曲も負けてはいません。後に「田園に死す」の劇中で三上が歌った血生臭い「カラス」や、怨念のこもった「おど」を躊躇なく放送できるメディアは今の日本にはありません。「なんでもいいからぶち壊せ」と吠える「小便だらけの湖」はセックスピストルズが叫ぶ「デストロイ」より5年早いです。「ものな子守歌」は森進一がカバーしました。

・ 馬鹿ぶし

・ ものな子守歌

・ カラス

・ 数珠の玉切れる日に

・ おど

・ なぜ

・ ピストル魔の少年

・ 木

・ 黒い小さな貨物列車

・ 小便だらけの湖

・ 夢は夜ひらく


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「ひらく夢などあるじゃなし」

URC

1972年

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デビュー作に続いて佐伯俊男がアートワークを担当したURCでの第一弾。変名で参加した柳田ヒロがアレンジャーとして貢献しています。無軌道な三上の表現に適度な音楽的彩りを与えたことで「誰を怨めばいいのでございましょうか」のような名曲がうまれました。現代史的な表現がふえたのも本作の特徴です。「ひびけ電気釜 !!」はそれが最もうまくはまった例です。「昭和の大飢饉予告編」と「五所川原の日々」は個性が大きく異なります。

・ あなたもスターになれる

・ ひびけ電気釜

・ 痴漢になった少年

・ 股の下を通り過ぎるとそこは紅い海だった

・ パンティストッキングのような空

・ 一人の女のフィナーレ

・ 昭和の大飢饉予告編

・ 誰を怨めばいいのでしょうか

・ 夢は夜ひらく

・ 故郷へ帰ったら

・ 気狂い

・ 夜中の2時

・ 五所川原の日々

・ 青森県北津軽郡東京村

・ 葬式


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「コンサートライブ零狐徒」

URC

1972年

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三上寛の魅力はライブにもあり、後に同年の高知でのライブが発掘されましたが、音質の良さで本作を推奨します。日本武道館、新宿厚生年金小ホール、高円寺会館で録られた音源からピックアップ。ここでの三上はフォークのぬるいイメージはありません。ほぼ全編ギター一本で破壊力があります。ラストの「東京だよおっかさん」が残す余韻は重いです。

・ 昭和の大飢饉予告

・ 犯されたら泣けばいい

・ よいしょよいしょ

・ 小便だらけの湖

・ なたもスターになれる

・ パンティストッキングのような空

・ ぴけ電気釜

・ 落日

・ 青森県北津軽郡東京村

・ 東京だよおっ母さん


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「BANG!」

URC

1974年

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三上寛はジャズに強い思い入れは特になかったようですが、本作は山下洋輔や坂田明、吉沢由治郎が参加しています。フリージャズ、アバンギャルドに急接近しています。大胆なコラージュを用いて吠えまくるタイトル曲がとにかく圧巻。対照的に山下洋輔が編曲とピアノ&オルガンを担当、渡辺勝、今井忍が講演したメロディアスな「赤い馬」のような曲もあります。ラストを飾る「最後の最後の最後のサンバ」でのソウルフルな歌唱も強烈です。

・ このレコードを私に下さい

・ 逢えてよかった

・ 華麗なる絶望

・ BANG!!

・ 密漁の夜

・ なんてひどい歌なんだ

・ 赤い馬

・ 最後の最後の最後のサンバ

遠藤賢司

1947年、茨城県勝田市生まれ。浪人時代にFENから流れてきたボブディランの曲、「ライクア・ローリングストーン」を聴いて、自分でも歌ってみようと考えるようになった・・・という挿話はフォーク歌手の履歴としては正統です。デビュー曲のB面「猫が眠ってる」が武満徹の「ノベンバー・ステップ」に影響を受けたものであり、中学の時には三橋美智也とエルビスプレスリーを同等に聴いていた・・・など、さらに音楽体験を掘り下げると、ジャンルを超越した”純音楽家”エンケンの大きな世界へと少しずつ近づいてきます。


1968年8月、京都の「第3回フォークキャンプ」に参加。高石ともや、ザフォーク・クルセダーズら関西フォーク人脈と出会い、高石音楽事務所に所属します。中津川フォークジャンボリーをはじめ、超絶なライブパフォーマンスで人気を博し、1969年に東芝から「ほんとだよ/猫が眠ってる」でデビューします。「ほんとだよ」の編曲は、木田高介、録音には西岡たかし、加藤和彦、早川義夫が参加しています。


1970年、URCからファーストアルバム「niyago」発表。前身であるバレンタイン・ブルー時代から、遠藤のバックを務めたこともある、はっぴいえんどの細野晴臣・鈴木茂・松本隆らが参加しています。翌1971年、同じくはっぴいえんどを従えて録音されたセカンドアルバム「満足できるかな」をポリドールからリリース。翌1972年、ここから「カレーライス」がシングルカットされ、10万枚のヒットとなります。女と同棲する男の半径数メートルの宇宙を描いたこの曲がフォーク歌手として遠藤賢司の代表作と認識されます。


ですが、ここからぐんぐんとその枠から逸脱してゆきます。1978年、セックスピストルズとクラフトワークに励まされ、四人囃子を従えて録音された大名盤「東京ワッショイ」を発表。1980年代、レコードリリースは沈黙しますが、ブルーチアーよりも五月蠅いハードロックバンドで復活。1991年25分に及ぶシングル「史上最長寿のロックンローラー」で度肝を抜きます。1996年の「夢よ叫べ」は来る未来の紅白歌合戦出場予定曲です。21世紀に入り観客のいない武道館でのひとりきりでのライブを記録した映画、「不滅の男 エンケン対日本武道館」に主演、映画「中学生円山」では「ド・素人はスッコンデロオ」披露しました。



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niyago

URC 1970年
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ライブでは圧倒的なパフォーマンスで聴き手を異次元に誘う「夜汽車のブルース」でスタート。バックを務めるのは本盤録音時にはっぴいえんどという新しいバンドをスタートさせた、細野晴臣、鈴木茂、松本隆の3人。彼らのファーストに先駆けて日本語によるロックの可能性は、既にここで始まっていました。走るのです、という口調は松本隆の詩作に直接影響を与えたのでしょうか。1972年、松本隆が大滝詠一に提供した「それはぼくじゃないよ」は、「ほんとだよ」へのアンサーソングかもしれません。本盤に起こる遠藤の歌声はまだどこかうつむきがちで、曲の深度にも反映しています。アシッドフォークと呼んで良いかもしれません。最後は束ねられていった時間がラスト12分を超える「猫が眠っている」で宇宙へと解き放たれます。

1. 夜汽車のブルース

2. ほんとだよ

3. ただそれだけ

4. 君がほしい

5. 雨あがりのビル街 僕は待ちすぎてとても疲れてしまった

6. 君のことすきだよ

7. 猫が眠ってる、NIYAGO



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エンケンの四畳半ロック

MIDI/RHYME 1999年
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前人未踏、純音楽家の道を邁進する遠藤賢司。時に懐かしのフォークソングという企画で、「カレーライス」を歌うことも厭いません。場所は変わっても一切妥協無しのパフォーマンス、まるで道場破りのような後味を残してゆきます。生ギター1本で歌えばフォークになるのか、という素朴な疑問が本盤を生みました。四畳半フォークならぬ四畳半ロック。「夜汽車のブルース」「カレーライス」「満足できるかな」「外は雨だよ」「ハローグッバイ」若き日の早川義夫に性的暗喩表現を激賞された「スクリュー」から「東京ワッショイ」「不滅の男」まで、歌とハーモニカとアコギで2チャンネル一発録り。当然のごとく弦は切れまくりで、ジャケットには弦が切れたギターを晴れ晴れしい表情で掲げるエンケンがいます。こんなイイ顔わみたければライブへどうぞ。

1. ねえ踊ろうよ

2. 満足できるかな

3. カレーライス

4. 夜汽車のブルース

5. スクリュー

6. 雨上がりのビル街

7. ハローグッバイ

8. 外は雨だよ

9. 踊ろよベイビー

10. 通好みロック

11. 東京ワッショイ

12. 不滅の男


あがた森魚

1948年北海道留萌市出身。深夜放送でボブディランの曲を聴き、音楽を志します。上京後は明治大学に入学し劇団で活動しました。1969年にURCの早川義夫を訪ね、自作曲を直接歌って聴かせることに成功。これがきっかけでフォークコンサートに出演を始めます。この頃蒲田の証券会社でアルバイトをしていたあがたは、同じ職場にいた鈴木慶一の母から音楽好きの息子を紹介され、意気投合。2人を中心にして始まったバンドは友人たちを巻き込み「アンクサアカス」「あがた精神病院」などとバンド名を替えながら継続。こらがはちみつぱいの母体となります。


URCと契約のチャンスを得られずにいた彼は、1970年に自主制作のソロアルバム「蓄音盤」をレコーディング。ベースを細野晴臣に依頼し、ここから細野との付き合いが始まります。同年秋にバンドは「はちみつぱい」に改名、次第にシンガーあがたのバックを彼らが受け持つという関係に移行してゆきます。そして1971年、中津川フォークジャンボリーに出演したことで運命が変わります。


はちみつぱいと共にサブステージで演奏していた彼のライブを、ベルウッドレコード三浦光紀が見ていました。林静一の同題漫画にインスパイアされて生まれた「赤色エレジー」はまず自主制作の絵本つきシングルとして発売され、1972年4月にベルウッドから改めて発売。新人としては異例の約30万枚を売り、一躍時の人となります。ジーンズに下駄ばきというスタイルで感情をむき出しにして歌うあがた森魚の年代不詳な歌世界は、お茶の間レベルでもかなり話題になりました。


ファーストアルバム「乙女の儚夢」と自作「レ・ミゼラブル」はアートワークも含めてトータル性の高い作品となります。古き佳き時代への憧憬を今日的サウンドで表現するレトロモダンな試みは、「乙女の儚夢」で下敷きにしたフェアーポートコンベンションや、キンクス、ランディニューマンなど、同時代のアーティスト達から刺激された部分も少なからずあったようです。その後、フィリップへ移籍し細野晴臣プロデュースで録音時間の記録を作ったと噂される1976年の大作「日本少年」以降、果てしない音楽の旅を続けているあがたですが、少年性とシアトリカルな表現へのこだわりは見事に一貫しています。



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畜音盤
芽瑠璃堂
1970年
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鈴木慶一や渡辺勝、細野晴臣も巻き込んで制作。荒い音質がかえって眩しい処女作。ドノバンと彷彿させる「冬が来る~冬の祈り」に始まり、手数の多いドラムがガレージ風味な「神様なんているのかい」、ディラン風な「漆黒の雨」と続く前半はフォークロック的。「乙女の儚夢」に通じる「俺にとって俺とは何か」も、すでにあります。ラスト2曲は早川義夫とディランのカバー。孵化直前の、暗くも情熱に満ちた秀作です。

1. 冬が来る~冬の祈り

2. 神さまなんているのかい

3. 漆黒の雨

4. 俺にとって俺とは何か

5. ぼくの楽曲

6. 青い華燭

7. もてない男たちのうた

8. ハッテイキャロルの淋しい死



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乙女の儚夢
キング
ベルウッド
1972年
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「赤色エレジー」のヒットに続いて発表されたメジャーデビュー作。イラストは林静一、タイトルロゴを赤瀬川原平が担当、林は「大道芸人」の歌詞も書いています。あがたはアートワークと連動する曲間が一切ないアルバムをイメージしていたようで、ナレーションや見世物小屋の口上を交えた構成はその名残です。松島詩子「女の友情」のSP盤に合わせて遠藤賢司とあがたが一緒に歌ってしまう部分はサンプリングのかなり早い例と言っても言い過ぎではないでしょう。はちみつぱいは黒子として好演。屈指の名曲「冬のサナトリウム」から続く「清怨夜曲」は圧巻で、中盤では過去から現在へ高速移動するような感覚を味わえる。生まれたての「日本語フォークとロック」という枠組からするりと脱出してみせた、まるで魔法のようなアルバムです。

1. 乙女の儚夢

2. 春の調べ

3. 薔薇瑠璃学園

4. 雨傘

5. 女の友情

6. 大道芸人

7. 曲馬団小屋

8. 電気ブラン

9. 秋の調べ

10. 赤色エレジー

11. 君はハートのクィーンだよ

12. 冬のサナトリウム

13. 清怨夜曲


斉藤哲夫

斉藤哲夫は埼玉県鴻巣出身ですが、小学校へ上がる少し前に大森へ移ることになります。食堂の息子として育ち、歌の世界は極めて東京的です。それも松本隆の「風街」にように、ファンタジックではなく、庶民的な目線の表現を得意としました。二大アイドルは、ビートルズとボブディラン。どちらにも同じくらい強く思い入れることで、メロディの魅力とメッセージ性とを両立した初期のスタイルが生まれました。まだ明治学院大学に通っていた19歳の時、URCから発表したシングル「悩み多き者よ」はまさにディラン+「ジョンの魂」といった風情。


岡林信康に続くスターを必要としていたURCにとって斉藤は、期待の星で、西岡たかしがジャックスの木田高介と組んだサイケポップ的アプローチのプロジェクト「溶けだしたガラス箱」のアルバムにも起用されています。2枚目のシングル「されど私の人生」は吉田拓郎もカバーした名曲。しかしファーストアルバムのリリースは遅く、早川義夫がディレクターを担当した「君は英雄なんかじゃない」が世に出たのは1972年6月でした。


やがてソニーへ移籍すると、サウンドプロダクションがバンド的な方向へシフトします。デビュー作からの付き合いとなる瀬尾一三が全面参加した「ハイバイグッドバイサラバイ」「グッドタイムミュージック」「僕の古い友達」はいずれ劣らぬ傑作です。1979年にはポニーキャニオンへ移籍してからもそれまでの持ち味を保っていましたが、1980年にCMソング「いまのキミはピカピカに光って」が予想外のヒットを記録します。その後、契約を失ってからは方向性に悩み、一時リタイアした時期もありました。1988年には、朋友はちみつぱいの再結成&解散ライブ盤「9th June 1988」に参加。


そこでも歌った「甘いワイン」を含む自主制作盤「ダータファブラ」が最も新しいオリジナルアルバムです。2006年にはオフコース時代に「悩み多き者よ」をカバーした小田和正に招かれてTV特番で共演し注目を浴びます。2009年にはポニーキャニオンからセルフカバーアルバム「Spinach」を発表。2011年に脳梗塞で倒れますが、リハビリを重ねて回復しました。



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君は英雄なんかじゃない
URC
1972年
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はちみつぱいの渡辺勝と鈴木慶一、野沢亨司といった友人たちに加え、柳田ヒロ、式部秀明、田中清司が参加。音数を絞った編曲は、本作をディレクションした早川義夫の好みを反映したものでしょうか。まだプロテストフォークの強い影響下にあって、かなり背伸びした、しかし不思議と説得力のある言葉が並びます。1970年代の到来を痛感させる9分越えのタイトル曲は必聴です。「明日になれば」は後のポップ路線につながってゆきます。

1. 6/8無題 (素晴らしい人生)

2. 明日になれば

3. 悩み多き者よ

4. 君は英雄なんかじゃない

5. 時は矢の様に

6. 斧をもて石を打つが如く

7. 日の丸

8. とんでもない世の中だ



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バイバイグッドバイサラバイ
CBSソニー
1973年
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ムーンライダーズで活躍する岡田徹と白井良明、トランザムを組むチト河内と、後藤次利がバックを担当。ビートルズ色を解禁する一方で、村上律のペダル・スチールをフューチャーした「ここは六日町あたり」や、同じくカントリーロック調の「吉祥寺」も収めています。その「吉祥寺」やノスタルジックな旋律が胸を打つタイトル曲の言葉遊び的な手法は、四畳半フォークと一線を画す個性です。

1. 今日と明日をむすぶかけ橋

2. バイバイグッドバイサラバイ

3. もう春です(古いものはすてましょう)

4. ねぇ君

5. 今日から昨日へ

6. 頭の中一ぱいに続く長い道

7. ここは六日町あたり

8. 親愛なる紳士淑女の為に

9. 合間をぬって

10. 吉祥寺


友部正人

友部正人を語る時、詩人という言葉が対になって出てきます。思潮社の現代詩文庫から「友部正人詩集」が出版され、紛れもなく詩人と言っていいでしょう、しかし、彼の言葉はとても優しく、旋律を伴うことによりとてつもなく高い所にまで、舞い上がってゆきます。彼は1950年生まれ、全国各地を転々として過ごした後、名古屋で高校最後の年を迎えます。ギターを手に路上で歌うようになったのも、この頃からです。


もっとも影響を受けたのはボブディランでした。そのことは、彼の歌からも存分にうかがい知ることができます。その歌声からは、家出をしたり、世間を斜めに見たり、自分の本心を簡単には人に見せないことなどを、このフォークシンガーから学んだのではないでしょうか。彼はこのあと大阪にやってきます。このことは公私ともども、大きな変化を与えます。歌はさらに深く沈殿し、それを吐き出すためには沈痛な叫びが必要となってゆきます。


1972年にURCレコードからアルバム「大阪へやってきた」でデビューします。そして、同年、ベルウッドレコードよりシングル「一本道」をリリースします。その中の、ひりつくような歌声に誰もが感動しました。1973年には「乾杯」や「トーキング自動車レースブルース」などを含んだ名作「にんじん」を発表します。吐息が歌となり、饒舌さがメロディを追いかけてゆきます。このアルバムで自身の位置を明確化し、孤立を恐れず、孤高と肩を並べながら独自のスタンスで活動を続けてゆきます。


その後CBSソニーに移籍し、「また見つけたよ」「誰も僕の絵をかけないだろう」「どうして旅にでなかったんだ」の重要な3枚のアルバムを残しますが、歌詞の一部が、問題となり長らく再発CD化されることがありませんでした。その封印が解けたのが、2002年になってからでした。尚、「誰も僕の絵をかけないだろう」には、若き日の坂本龍一がピアノで参加しています。その後もMOJO CLUB、たま、グルーバーズ、ボ・ガンボス、パスカルズ、バンバンバザール、東京ローカルホンクといった、若い才能たちとライブやレコーディングで共演を果たしています。人を引きつける、不思議な磁力が彼にはあるように思います。



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「大阪へやってきた」

URC
1972年
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1. 大阪へやって来た

2. 酔っぱらい

3. もしもし

4. まるで正直者のように

5. 真知子ちゃんに

6. 梅雨どきのブルース

7. まちは裸ですわりこんでいる

8. 公園のベンチで



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「にんじん」

URC
1973年
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最初にジャケットを見た時の痛烈な印象は、未だに忘れられません。友部のだみ声を聞き、この老人が友部だと信じた人もいたといいます。「トーキング自動車レースブルース」の堰を切ったような饒舌さ、ささくれだった詩情が行き交う「にんじん」など、友部の全てが詰まっています。国鉄の混雑したホームの様子が描写される「ストライキ」や、連合赤軍泰子さんは無事救出といった言葉が登場してくる「乾杯」など、時事性を持った曲が出てきますが、それらを政治的な背景とはせずに、個人史の中の風景にしているところが友部らしいです。それは、自身をより描きだしているからと言えます。この意味においてm「一本道」が伝える衝撃は永遠に不滅です。中央線は今でも、あの娘の胸に突き刺さっているのだと思います。

1. ふーさん

2. ストライキ

3. 乾杯

4. 一本道

5. にんじん

6. トーキング自転車レースブルース

7. 長崎慕情

8. 西の空に陽が落ちて

9. 夢のカリフォルニア

10. 君が欲しい


西岡恭蔵

西岡恭蔵は1948年、三重県志摩市出身。実家は真珠の養殖業を営んでいました。高校の頃からビートルズやピーターポール&マリー、ボブディランなどに感化されオリジナル曲を書き始めます。その後近畿大学へ進学、大阪のフォークスクールで、大塚まさじと出会い、彼がマスターをしている店「ディラン」の常連客となります。そこに集まっていた西岡、大塚、永井洋の3人がやがて「ザディラン」という、フォークグループに発展します。


中津川で開催されたフォークジャンボリーなど、多くのイベントに出演しましたが、西岡は1971年に脱退します。残った2人は「ザディラン2」を改名、彼らが1971年にレコーディングしたファーストアルバム「きのうの思い出に別れをつげるんだもの」には西岡も参加します。ソロに転じた西岡はベルウッドと契約し、1972年に「ディランにて」でデビュー。


ディラン2も録音した「プカプカ」が評判になり、多くのアーティストにカバーされる代表曲となりました。1973年には細野晴臣がプロデュースを担当し、2作目「街行き村行き」を録音します。その縁もあり9月に行われたはっぴいえんどのラストライブに西岡も出演しました。この日の模様を収めた「ライブはっぴいえんど」に2曲収められています。1974年にはザディランの再編アルバム「悲しみの街」をオリジナル・ザ・ディラン名義でリリース。全曲が西岡のオリジナル曲で占められていました。


ソロ3作目、「ろっかばいべいびい」は再び細野晴臣プロデュースで、鈴木茂&ハックルバックが参加。これを最後に西岡はベルウッドを離れ、ショーボートへと移籍します。1975年からはソロデビューした矢沢永吉の作詞を手掛け始め、多額の印税収入を得るようになります。それを資金に1976年に愛妻KUROとメキシコ~バハマを旅行。この時に書いた曲を中心に、ソーバッドレビューとLAでレコーディングした「南米旅行」は音楽観の大きな変化を示した重要作です。


1980年代以降はソロと並行して岡嶋善文と組んだKyouzeo&Bun、大塚まさじとの連名でもアルバムを発表。フォークの枠からはみ出す、西岡風としか言いようのない、大らかな作風を確立しました。関西きってのメロディメーカーだっただけに、50歳という若さでの自殺はあまりにも惜しいです。



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「ディランにて」

1973年

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1. サーカスにはピエロが

2. 下町のディラン

3. 谷間を下って

4. 君住む街に

5. 風を待つ船

6. 丘の上の英雄さん

7. 君の窓から

8. 僕の女王様

9. プカプカ

10. 街の君

11. 終りの来る前に

12. サーカスの終り



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街行き村行き
キング/ベルウッド
1974年
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細野晴臣が全面参加したセカンドアルバムです。バックは細野とはちみつぱい。詞曲共にはっぴいえんどの影響が色濃く感じられます。リズムボックスを使った「ひまわり村の通り雨」「飾り窓の君」ではスライなどのニューソウル風味を、細野が巧みに導入。シティ/カントリーの往来をテーマに捉えた点も面白いし、洗練された佳曲揃いですが、前作の内省的な詞世界が変り過ぎてしまった感があります。

1. 村の村長さん

2. 春一番

3. どぶろく源さん

4. パラソルさして

5. ひまわり村の通り雨

6. 飾り窓の君

7. 海ほうずき吹き

8. うらない師のバラード

9. 朝の散歩道

10. 街行き村行き


ディランⅡ

フォークロックの雄として、東のはっぴいえんどと並び称されたザ・ディランⅡですが、その歴史を語るのは少し複雑です。1969年ごろ、大阪難波の高島屋から少し離れた場所に、大塚まさじが喫茶店を開きます。そこに西岡恭蔵、永井洋が集まってきました。既に楽曲を作っていた西岡の作品を中心に、彼らは歌い始めます。ザ・ディランの結成です。1970年、春一番コンサートの前身となる BE IN LOVE ROCK に出演したり、アングラ演劇・黒テントを利用したコンサートを歌を披露して好評を得ます。


ですが、学生だった西岡、永井の卒業や西岡の体調不要により1年間でその活動を終えます。その後、URCから大塚の元にレコードデビューの話が舞い込みます。そこで大塚は、永井んと二人で「ザ・ディランⅡ」を名乗って「男らしいってわかるかい」B面は「プカプカ」をリリースします。その後アルバム「昨日の思いでに別れを告げるんだもの」「SECOND」の2枚を発表します。


一方の西岡も復活し、ザ・ディランⅡに曲を提供したり、サポートに回ったりと、ザ・ディランⅡも3人の力の結晶だったことがわかります。西岡もベルウッドから1972年「ディランにて」でソロデビュー。その後、ザ・ディランⅡもベルウッドへ移籍。そこでベルウッドは1974年、この3人に加えて長田タコヤキ、佐藤博、田中章弘、林敏明など、喫茶店ディランに集っていた仲間を集め、セッションバンドとして「オリジナル ザ・ディラン」を結成します。アルバム「悲しみの街」を発表し、半年間活動を続けました。後に佐藤・田中・林は鈴木茂とバックルバックを結成します。


1974年にザ・ディランⅡはオリジナル・ザ・ディランのメンバーサポートでアルバム「この世を悲しむ風来坊に捧ぐ」をリリースします。細野晴臣「恋は桃色」や休みの国「追放の歌」のカバーなどで話題を呼びますが、西岡の曲が1曲のみであったり、オリジナル・ザ・ディランの演奏色が強くなったりと、ザ・ディランⅡのイメージとは遠くなってゆきました。その年、シアターグリーンの「解散コンサート」を経て、1974年12月に「ラストコンサート」を開催し解散しました。ザ・ディランの結成からわずか3年半しか経っていませんでした。



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きのうの思いでに
別れをつげるんだもの
URC 1972年
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ボブディランの「アイシャルビー リリースド」を訳した「男らしいってわかるかい」。アングラの女王と呼ばれたジャズシンガー安田南をモデルにした、西岡恭蔵作詞作曲「プカプカ」。時代の挫折を歌う「サーカスにはピエロが」、そして大陸のノスタルジーを匂わせる「満鉄小唄」など、ルーツロックを感じさせる1枚です。中川イサトが大塚、永井と共にディレクターを務めています。

1. 君の窓から

2. 子供達の朝

3. その時

4. 君をおもいうかべ

5. 男らしいってわかるかい

6. プカプカ (みなみの不演不唱)

7. さみしがりや

8. 君はきままに

9. うそつきあくま

10. サーカスにはピエロが



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SECOND
URC 1973年
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瀬尾一三、柳田ヒロシ、シンガーズ・スリーなど前作と参加メンバーも変わり、「ガムをかんで」や「パラソルさして」などに代表されるラブソングが多く、大塚自身「前作より聴きやすい」と語ったセカンドアルバムです。大塚作のルーツロック「悲しみは果てしなく」や、永井が見事なギターソロを聴かせるインストルメンタル「夕映え」を聴いていると、二人の音楽志向がはっきり分かれてきているのがわかります。

1. ガムをかんで

2. 茶色い帽子

3. 君はきっと

4. 君住む街

5. こいのぼり

6. パラソルさして

7. 夕映え (インストゥルメンタル)

8. 悲しみは果しなく

9. すてきな季節に

10. 僕の街

11. ガムをかんで

12. 男らしいってわかるかい

13. プカプカ



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オリジナル・ザ・ディラン
悲しみの街
キング/ベルウッド
1974年
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西岡が在籍するベルウッドにディランⅡの二人も移籍します。関西ロック、ブルース界の新鋭たちも加え、ザ・ディラン時代の西岡の曲をレコーディングした企画盤です。ディランⅡのフォークロック、アコースティック調だけではなく、ファンクな「俺たちに明日はない」、ブルース「悲しみを抱いた汽車」などバラエティ豊か。さらには世界観がすごい「魔女裁判」など、20歳そこそこでこの曲を考えた西岡恭蔵、恐るべしです。

1. 悲しみの街

2. 五番街の恋人

3. ねえ君

4. 魔女裁判

5. ほら貝を語る

6. 俺達に明日はない

7. 魔法の舟で

8. 悲しみを抱いた汽車

9. 馬車曳き達の通る道



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時は過ぎて
~ザ・ディランⅡライブ
キング/ベルウッド
1975年
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1974年11月に池袋シアターグリーンで1週間にわたり開催された解散コンサートの収録盤。当然オリジナル・ザ・ディランの演奏もありますが、アルバムにはディランⅡ二人での演奏が収められています。「ガムをかんで」「子供たちの朝」などの代表曲も、アルバムとは違った雰囲気に。特筆すべきは、そのことで浮き出てくる、永井洋のギター。「その気になれば」でボーカルを取りながらの音色は「凄い」の一言です。

1. ガムをかんで

2. 子供達の朝

3. 茶色い帽子

4. 時は過ぎて

5. 君住む街

6. プカプカ

7. 淋しがりや

8. その気になれば

9. 悲しみのセールスマン

10. こんな月夜には

11. サーカスにはピエロが


うたごえ運動

日本のフォークソングにおいて、部分的源流として「うたごえ運動」があります。音楽をとおしての社会運動として行われたもので、レパートリーは合唱曲や、ワークソング、ロシア民謡をはじめ失われつつある民謡などを掘り起こす側面も、持ち合わせていました。運動の発端は民青といわれる日本共産党の青年組織の音楽部門で、中央合唱団が結成されたことによります。指導者の関鑑子は、プロレタリア芸術運動に参加した声楽家で、1951年に音楽センターの主宰となります。


この時期、渡辺裕「歌う国民」(中公新書)によると「全国各地で企業の労働組合を母体として合唱団が数多く作られ、合唱祭を開催するなどの様々な活動を展開」とあります。楽曲の創作も運動の主目的の一つで、代表的な作家に荒木栄がいます。荒木は三池争議に参加し、労働者を励ます楽曲を作り続け「がんばろう」、「沖縄を返せ」などの代表作を残しました。合唱曲という性格上、通常の流行歌より音域は狭く、叙述的で具体的な歌詞が多い、これらの楽曲は1955年~1956年の「カチューシャ」「灯」の開店を契機に全国的に流行した歌声喫茶などで歌われ、人々の間に広まってゆきました。


政治的な主張を楽曲に乗せて皆で歌うというスタイルは反戦フォークの部分的源流と言えますが、歌い手に内在する主義主張の音楽的表現と、労働運動と一体化した文化運動では姿勢として相いれない部分もあります。うたごえ運動ではポピュラー音楽はアメリカ帝国主義の文化侵略、歌謡曲は大衆迎合という解釈が当然のこととして語られていました。


1965年には同じ左派の日本社会党や国労などがうたごえ運動から離脱するなど、1970年代に急速に退潮してゆきました。うたごえ運動に関わったアーティストには、すずききよしや女性合唱団のヴォ―チェアンジェリカ出身で、麦笛の会を主催していた横井久美子がいます。上条恒彦はうたごえ喫茶の歌手から、労音勤務を経て歌手デビュー。さとう宗幸も1970年代前半に歌声喫茶「若人」のリーダーでした。また日共支持者として知られた、いずみたくの作品は「われた青春」「太陽がくれた季節」などがレパートリーとして取り上げられました。


本田路津子

本田路津子は両親が敬虔なキリスト教徒で、旧約聖書の「ルツ記」に由来する、その名前からしてユニークな存在です。桜美林大学在学中の1970年9月に、ハルミラフォークコンテストでジョーンバエズの「シルキー」を歌い、その場にいた小室等の紹介によりCBSソニーから「秋でもないのに」でデビュー。「風が運ぶもの」「一人の手」などのヒットを放ち、森山良子に続く美声の、女性フォークシンガーとして活躍します。いい意味で性的な匂いを感じさせない、折り目正しいボーカルスタイルで、清潔感あふれる高音域の美しさには、特筆すべきものがあります。


NHKの朝ドラ「藍より青く」の主題歌となった、「耳をすませてごらん」のヒットで一般的にも親しまれますが、1975年に結婚引退し渡米します。キリスト教に帰依し、1988年の帰国以降はゴスペル・シンガーとして教会コンサートなどで活躍します。



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秋でもないのに
CBSソニー
1971年
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ファーストアルバムはデビュー曲(1)のほか洋邦のフォークカバーを収録。山上路夫=加藤和彦の(3)(4)の清潔感はもとより、キャッスル&ゲイツの(10)やフォーセインツの(11)といったカレッジフォークからビートシンガーの(2)のような反戦フォークも取り入れています。本田自身が訳詞した(5)は、トルコの社会派詩人ナーズム・ヒクメットの原詩で、プロテスタントソングとして原水禁運動集会や歌声喫茶で盛んに歌われたものです。

1.  秋でもないのに

2.  一人の手

3.  野に咲く花

4.  小さな丘の小さな家

5.  死んだ少女

6.  風がはこぶもの

7.  誰もいない海

8.  遠い世界に

9.  白い色は恋人の色

10.  おはなし

11.  小さな日記

12.  今日の日はさようなら



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家路
CBSソニー
1971年
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全曲オリジナルで構成されたセカンドアルバムです。山上路夫が構成と、10曲の作詞を担当しコンセプチュアルな作りをしています。表題曲(1)は、シングル発売され、渋谷毅による流麗なラウンジミュージックや、アンドレカンドレ(井上陽水)作のセンチメンタルなメロディーが美しい(3)、元MFQの麻田浩の詞曲によるカントリータッチの(9)など、どれもクリアーで、土臭さのないボーカルを活かしています。特に石川鷹彦作曲の(11)での、澄み切ったハイトーンは魅力的です。

1. ある朝生まれて

2. ままごとの世界

3. 春が来ると

4. 希望の国

5. 孤独な少女

6. 陽は昇る

7. 家路

8. 恋する瞬間

9. どうしているの

10. あの想い出の道

11. 一年たちました

12. 出発のある人生


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