1948年北海道留萌市出身。深夜放送でボブディランの曲を聴き、音楽を志します。上京後は明治大学に入学し劇団で活動しました。1969年にURCの早川義夫を訪ね、自作曲を直接歌って聴かせることに成功。これがきっかけでフォークコンサートに出演を始めます。この頃蒲田の証券会社でアルバイトをしていたあがたは、同じ職場にいた鈴木慶一の母から音楽好きの息子を紹介され、意気投合。2人を中心にして始まったバンドは友人たちを巻き込み「アンクサアカス」「あがた精神病院」などとバンド名を替えながら継続。こらがはちみつぱいの母体となります。
URCと契約のチャンスを得られずにいた彼は、1970年に自主制作のソロアルバム「蓄音盤」をレコーディング。ベースを細野晴臣に依頼し、ここから細野との付き合いが始まります。同年秋にバンドは「はちみつぱい」に改名、次第にシンガーあがたのバックを彼らが受け持つという関係に移行してゆきます。そして1971年、中津川フォークジャンボリーに出演したことで運命が変わります。
はちみつぱいと共にサブステージで演奏していた彼のライブを、ベルウッドレコード三浦光紀が見ていました。林静一の同題漫画にインスパイアされて生まれた「赤色エレジー」はまず自主制作の絵本つきシングルとして発売され、1972年4月にベルウッドから改めて発売。新人としては異例の約30万枚を売り、一躍時の人となります。ジーンズに下駄ばきというスタイルで感情をむき出しにして歌うあがた森魚の年代不詳な歌世界は、お茶の間レベルでもかなり話題になりました。
ファーストアルバム「乙女の儚夢」と自作「レ・ミゼラブル」はアートワークも含めてトータル性の高い作品となります。古き佳き時代への憧憬を今日的サウンドで表現するレトロモダンな試みは、「乙女の儚夢」で下敷きにしたフェアーポートコンベンションや、キンクス、ランディニューマンなど、同時代のアーティスト達から刺激された部分も少なからずあったようです。その後、フィリップへ移籍し細野晴臣プロデュースで録音時間の記録を作ったと噂される1976年の大作「日本少年」以降、果てしない音楽の旅を続けているあがたですが、少年性とシアトリカルな表現へのこだわりは見事に一貫しています。
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畜音盤
芽瑠璃堂
1970年
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鈴木慶一や渡辺勝、細野晴臣も巻き込んで制作。荒い音質がかえって眩しい処女作。ドノバンと彷彿させる「冬が来る~冬の祈り」に始まり、手数の多いドラムがガレージ風味な「神様なんているのかい」、ディラン風な「漆黒の雨」と続く前半はフォークロック的。「乙女の儚夢」に通じる「俺にとって俺とは何か」も、すでにあります。ラスト2曲は早川義夫とディランのカバー。孵化直前の、暗くも情熱に満ちた秀作です。
1. 冬が来る~冬の祈り
2. 神さまなんているのかい
3. 漆黒の雨
4. 俺にとって俺とは何か
5. ぼくの楽曲
6. 青い華燭
7. もてない男たちのうた
8. ハッテイキャロルの淋しい死
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乙女の儚夢
キング
ベルウッド
1972年
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「赤色エレジー」のヒットに続いて発表されたメジャーデビュー作。イラストは林静一、タイトルロゴを赤瀬川原平が担当、林は「大道芸人」の歌詞も書いています。あがたはアートワークと連動する曲間が一切ないアルバムをイメージしていたようで、ナレーションや見世物小屋の口上を交えた構成はその名残です。松島詩子「女の友情」のSP盤に合わせて遠藤賢司とあがたが一緒に歌ってしまう部分はサンプリングのかなり早い例と言っても言い過ぎではないでしょう。はちみつぱいは黒子として好演。屈指の名曲「冬のサナトリウム」から続く「清怨夜曲」は圧巻で、中盤では過去から現在へ高速移動するような感覚を味わえる。生まれたての「日本語フォークとロック」という枠組からするりと脱出してみせた、まるで魔法のようなアルバムです。
1. 乙女の儚夢
2. 春の調べ
3. 薔薇瑠璃学園
4. 雨傘
5. 女の友情
6. 大道芸人
7. 曲馬団小屋
8. 電気ブラン
9. 秋の調べ
10. 赤色エレジー
11. 君はハートのクィーンだよ
12. 冬のサナトリウム
13. 清怨夜曲