友部正人を語る時、詩人という言葉が対になって出てきます。思潮社の現代詩文庫から「友部正人詩集」が出版され、紛れもなく詩人と言っていいでしょう、しかし、彼の言葉はとても優しく、旋律を伴うことによりとてつもなく高い所にまで、舞い上がってゆきます。彼は1950年生まれ、全国各地を転々として過ごした後、名古屋で高校最後の年を迎えます。ギターを手に路上で歌うようになったのも、この頃からです。
もっとも影響を受けたのはボブディランでした。そのことは、彼の歌からも存分にうかがい知ることができます。その歌声からは、家出をしたり、世間を斜めに見たり、自分の本心を簡単には人に見せないことなどを、このフォークシンガーから学んだのではないでしょうか。彼はこのあと大阪にやってきます。このことは公私ともども、大きな変化を与えます。歌はさらに深く沈殿し、それを吐き出すためには沈痛な叫びが必要となってゆきます。
1972年にURCレコードからアルバム「大阪へやってきた」でデビューします。そして、同年、ベルウッドレコードよりシングル「一本道」をリリースします。その中の、ひりつくような歌声に誰もが感動しました。1973年には「乾杯」や「トーキング自動車レースブルース」などを含んだ名作「にんじん」を発表します。吐息が歌となり、饒舌さがメロディを追いかけてゆきます。このアルバムで自身の位置を明確化し、孤立を恐れず、孤高と肩を並べながら独自のスタンスで活動を続けてゆきます。
その後CBSソニーに移籍し、「また見つけたよ」「誰も僕の絵をかけないだろう」「どうして旅にでなかったんだ」の重要な3枚のアルバムを残しますが、歌詞の一部が、問題となり長らく再発CD化されることがありませんでした。その封印が解けたのが、2002年になってからでした。尚、「誰も僕の絵をかけないだろう」には、若き日の坂本龍一がピアノで参加しています。その後もMOJO CLUB、たま、グルーバーズ、ボ・ガンボス、パスカルズ、バンバンバザール、東京ローカルホンクといった、若い才能たちとライブやレコーディングで共演を果たしています。人を引きつける、不思議な磁力が彼にはあるように思います。
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「大阪へやってきた」
URC
1972年
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1. 大阪へやって来た
2. 酔っぱらい
3. もしもし
4. まるで正直者のように
5. 真知子ちゃんに
6. 梅雨どきのブルース
7. まちは裸ですわりこんでいる
8. 公園のベンチで
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「にんじん」
URC
1973年
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最初にジャケットを見た時の痛烈な印象は、未だに忘れられません。友部のだみ声を聞き、この老人が友部だと信じた人もいたといいます。「トーキング自動車レースブルース」の堰を切ったような饒舌さ、ささくれだった詩情が行き交う「にんじん」など、友部の全てが詰まっています。国鉄の混雑したホームの様子が描写される「ストライキ」や、連合赤軍泰子さんは無事救出といった言葉が登場してくる「乾杯」など、時事性を持った曲が出てきますが、それらを政治的な背景とはせずに、個人史の中の風景にしているところが友部らしいです。それは、自身をより描きだしているからと言えます。この意味においてm「一本道」が伝える衝撃は永遠に不滅です。中央線は今でも、あの娘の胸に突き刺さっているのだと思います。
1. ふーさん
2. ストライキ
3. 乾杯
4. 一本道
5. にんじん
6. トーキング自転車レースブルース
7. 長崎慕情
8. 西の空に陽が落ちて
9. 夢のカリフォルニア
10. 君が欲しい