URCは日本で初めてのインデペンデント・レーベルとして1969年の冬に発足しました。URCとはアングラ・レコード・クラブの略です。最初は会費を募りその会員にレコードを配布するというスタイルで始まりました。母体となったのは、秦政明が運営する高石事務所。後に音楽者舎と改名します。秦は歌声運動を皮切りとして音楽にのめり込みます。
大学卒業後はクラシックのコンサートを主催する会社に入り、その後独立して会社を興します。その名はアートプロモーション。高石事務所は高石友也のマネージメントをするための会社でした。のちにはフォーククルセダーズや岡林信康、ジャックスなども所属しました。
その後、会員制から一般販売へと変わってゆきます。会員配布の第一号となったのが、高田渡と五つの赤い風船のスプリットアルバム、ミューテーションファクトリー「イムジン河」、トリンコーンソン「坊や大きくならないで」のシングル2枚でした。しかしフォークル版「イムジン河」は発売中止となってしまいます。ならばという形で出したのがミューテーションファクトリーでした。
URCレコードが独立レーベルに拘ったのには訳があります。当時のレコード会社は日本レコード協会に加盟していることが原則となっていました。この協会にはレコード制作基準倫理委員会が設けられていました。発売前には内容のチェックが行われていました。思想的であったり猥雑なものは公序良俗を乱すという理由で規制されました。この規制の中には、表現の自由をおびやかすものまで含まれてしまいます。これらの規制から歌の自由と取り戻すのが、URCレコードの目的の一つでした。
「イムジン河」にしろ、高田渡「自衛隊に入ろう」、岡林信康「くそくらえ節」にしろ、既存のレコード会社ではまず発売が無理でした。他にも春歌のアルバムを出したり、新宿西口広場でのフォークゲリラの唄声をドキュメントで、これらもインディでしか成し得なかったはずです。
この何物にも束縛されない自由な雰囲気が若者には受けました。若いディレクターを使い、商業主義に捕らわれないレコードを作ります。まさに理想郷であり、このパラダイスには岡林信康、五つの赤い風船、高田渡、加川良、友部正人、ザ・ディラン2、中川五郎、なぎらけんいち、斉藤哲夫、はっぴいえんど、三上寛などの若き才能が集まってきました。1969年からは一般発売がはじまります。
岡林信康のデビューアルバム「わたしを断罪せよ」と、五つの赤い風船「おとぎばやし」がリリース。取次流通を通さず全国130ほどのレコード店や楽器店と直接契約を結びました。現在行われているインディーズの配給方法とほぼ同じですが、当時としては画期的でした。こういった販売方法だけでなく、さまざまな方法も取り入れていました。自社で版権や原盤権を管理、音楽出版社(アート音楽出版)を持ちフォークのミニコミ誌を発行、さらに音楽舎を通してコンサートの企画も行いました。これらの総体が秦政明のURCでした。
1974年以降は大手レコード会社がフォーク専門のレーベルを発足します。そして、そこに看板アーティストたちが移籍してしまいます。しかし、URCは独立系レーベルならではの本領を発揮してゆきます。今度は関西ローカルで活動していたシンガーたちを発掘してゆきます。その中から古川豪、ひがしのひとし、宮里ひろし、中島光一などが飛び立ってゆきます。その姿もまたURCレコードらしく映りました。