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 新世界へ

マーチンギターのヘッドにある“C.F.Martin&Co.,Est.1833”の文字。これは、1933年にChristian Federick Mrtin(C.F.) がドイツからアメリカに渡り、ギターに関するビジネスを 始めたことを表しています。アメリカは多くの移民にとって 自由の象徴だったのですが、C.F.にとっては、ヴァイオリン メーカーから邪魔されずにギターを自由に作れる地でもあったのです。 Christian Frederick Martin,Sr. C.F.は1796年1月31日 に生まれ、父親のJohann Georg Martinはマルクノイキルヒェンのギター開発主任でした。この頃のドイツではギルド(職人組合)が大きな力を持っており、どのギルドに所属するかで仕事の内容が制限されていたのですが、父親は家具のギルドに所属しており、家具職人として ギターケースを主に作っていたようです。息子のC.F.はギター作りに興味を持っていたのですが、その町のヴァイオリン職人はギターを低俗なものとみなしていたため、オーストリアのウィーンにあるシュタウファーというギターメーカーで仕事を始めます。C.F.はシュタウファーでは店長をやっていましたが、C.F.自身は、ギターを作ることよりも、ビジネスとしての経営に興味があったようで、1825年に退職します。1826年にはマイクノイキルヒェンに帰るのですが、ウィーンで結婚し、1825年10月にC.F.Martin,Jr.が誕生します。マイクノイキルヒェンに帰ってからは、ヴァイオリン職人組合との間で、ギター作りに関して裁判で争うことになるのですが、結果的には、ギターを作ろうとしていた家具職人をアメリカという海外に追いやることになってしまいます。1833年10月、C.F.は友人のHeinrich Schatzと一緒にアメリカの ニューヨークに渡り、年末には196 Hudson St.にミュージックストアを開きます。そして、Christian edrichという名前はFredrich (Frederich)に、HeinrichはHenryというアメリカ風の名前に改名します。Martinの店ではターなどの弦楽器以外に管楽器やピアノも扱っており、楽器を輸入して小売店に卸すことも行っていました。

 


 マーチンファミリーについて

MartinはC.F.Martinが1833年に創業した企業なのですが、現在の社長も同じくC.F.Martinという名前であり、他に例をみないような伝統的な「同族企業」です。同時に会社全体で家族的な雰囲気を大切にすることにより、従業員が自分たちの仕事に誇りを持ち、ギターを愛し、Martin社を愛するという社風を維持し続けているという特徴があります。Martinの工場も、住宅地の中にあり、工場というよりも1960年代の小学校のような雰囲気を持った建物です。そんな社風があるからこそ、変化し続ける時代の流行に左右されることなく、1850年に創業者が確立したギター作りの基本を、現代でも守り続けることができているのかも知れません。Christian Frederick Martin,Sr.(1796年1月31日〜1873年2月16日)

 

・ マーチンの創業者
・ ドイツ生れ、父はJohann Georg Martin
・ オーストリアのギターメーカー“シュタウファー”で働いた後、1833年に渡米

Christian Frederick Martin,Jr.(1825年10月2日〜1888年11月15日) 
・C.F.Martin,Sr.の息子

Frank Henry Martin(1866年10月14日〜1948年4月9日) 
・C.F.Martin,Jr.の息子

Christian Frederick Martin,V(1894年9月9日〜1986年6月15日)
・Frank Henry Martinの長男
・ 1948年社長に就任
・ 1971年に息子に社長を譲った後も、亡くなるまで会長として在任

Herbert Keller Martin(1895年12月5日〜1927年)
・Frank Henry Martinの次男 

Frank Herbert Martin(1933年〜1993年11月25日)
・C.F.Martin,Vの息子
・1971年社長に就任、1982年退任

Christian Frederick Martin,W(1955年7月8日〜) 
・Frank Herbert Martinの息子
・1986年、C.F.Martin,V(祖父)の死去に伴い、CEO(最高経営責任者)に就任

 


 ナザレス

現在でもマーチンの工場があるペンシルベニア州は、ドイツからの移民が多く住んでおり、建物の作りも言葉も、まるでドイツにいるかのような雰囲気が漂う地域だったようです。ドイツから一緒に来たHenry Schatzは、1835年に、そのペンシルベニア州のミルグローブに引越すのですが、マーチンも、1838年にニューヨークの店の在庫品を売り払い、1839年5月29日には、ペンシルベニア州のナザレスに移ります。その後は、活動拠点はナザレスになるのですが、当時、ナザレスの不動産はキリスト教モラビス派の所有であり、モラビス派でなかったマーチンは、仕方なく町の郊外にあるチェリーヒルに居を構えます。こうして、ニューヨークからは離れてしまったものの、John Coupa、Charles Bruno、C.A. Zoebisch and Sonsなど、ニューヨークでマーチンが作ったギターを売ってくれるネットワークを再構築することで、ギター作りに専念できる環境が整い、事業も軌道に乗り始めます。1850年頃には工場を拡張するほどの好調さを見せるのですが、C.F.Martinは単にギターを作って売ること以上に、それまでのギターのデザインを大きく変えることに情熱を燃やし、ニューヨークにいた頃とは全く違ったギターを作り上げます。

 

マーチンの初期のギターは、かつて働いていたシュタウファーの影響で、現在よりも小さく、ボディのくびれの部分が太い上に、上の膨らみも下の膨らみも同じような幅をしていました。使っている材料も、指板全体に象牙を使ったり、派手な“バーズアイ(鳥の目)”メイプルを使ったりして、ルネッサンス時代を思わせるようなデザインが見られました。当時のアメリカでは、移民は生活に追われており、ヨーロッパスタイルの派手な楽器の市場は限られていました。その上、バンジョーが流行し、19世紀末までギターは日陰の存在となります。そこで、マーチンもシンプルなアメリカの生活に合わせて、実用的で、価格もバンジョーに対抗できるギター作りをめざします。高価なシュタウファースタイルのヘッドやペグを四角のスロテッドヘッドに変え、ボディのくびれから下の膨らみを幅広くして音の深みを出すとともに、よりなめらかで上品な形にします。バックとサイドの材料にはブラジリアンローズウッドを採用し、派手な装飾はせず、トップの縁とサウンドホール周囲、バック中央の継ぎ目だけに飾りを施すという、現在のマーチンギターと似たデザインに変更します。この装飾は、斜めにカットした“ハーフ・ヘリンボーン”という形の、色の付いた木片を組み合わせて作られました。また、シュタウファースタイルの装飾がついていたブリッジも、両端にピラミッド型の装飾が付いただけの、四角の単純な形に変ります。

 


 ドレッドノートの開発 ( Diston V )

マーチンが新たな挑戦を行っていた1930年代、時を同じくして、 OMやアーチトップを凌ぐ別の開発を行います。より大きな音量を 持つギターに対する需要の高まりは、マーチンのより大きなフラット トップの製造を後押ししていたのですが、なぜか、マーチンは、 15インチ幅の000の幅を広げるという手段をとりませんでした。 その代わりに、かつて特注で作っていたボディの形を復活させる という、最も簡単な方法をとります。そのボディは、くびれの部分 が太く、上部のふくらみの幅も広い、“スクウェア・ショルダー” と呼ばれるようになる、箱型のスタイルをしており、マーチンでは、このボディのギターを1916年から、ボストンにあるOliver Diston社の注文で数種類作っていました。

 


 X-ブレイシングとサイズの標準化

「わずかな装飾で威厳と上品さを表現するマーチンギターのデザインは、趣味の良さを物語っています」これは、1920年のカタログにある表現ですが、その考え方は1850年代から変っておらず、シンプルでモデルごとに統一されたデザインは、現代人の目から見ても、今のギターの原型とも言うべき、洗練された形状を持っていました。1850年には、“Xパターンのブレイシング”という、C.F.Martinという名前がギター史上に永遠に刻まれることになる、革新的な開発を成し遂げます。それまでのブレイシングは、ファンブレイシングか、単純に平行に並べただけの形状が一般的なものでした。もちろん、C.F.Martin以外にも、より良いブレイシングのパターンを考えていた者はいた(現存している1850年頃のギターにも、マーチン以外でX形状のブレイシングを持つギターは複数あります)のですが、その形を完成させたのがC.F.Martinなのです。しかし、C.F.Martinが生きている間にギターがアメリカで流行するということはありませんでした。渡米してきた頃、黒人に扮した芸人によってバンジョーが流行し始めてており、1840年代には、吟遊詩人のショーでバンジョーがブームとなり、19世紀末になるとマンドリンが加わってきます。もっとも、ギターを弾く人がいなかったわけではなく、マーチンのような小さなメーカーを支える程度のギタープレイヤーはいたようです。また、19世紀前半にはアメリカに大きな楽器メーカーは存在せず、ヨーロッパで作られた楽器を売る店があっただけという状況でした。C.F.Martinのギターデザイナーあるいはビルダーとしての能力は、間違いなく高いものがありました。初期のギターは技術と芸術性の高さを示していますし、後期の飾りの少ないデザインは実用的能力と堅実な職人気質を見せています。

 

しかし、マーチンの成功の鍵は職人気質とは反対とも言える、優れたビジネスマンとしての側面でした。1850年に工場を拡張した後、1852年には製造だけでなく販売やマーケティングもより合理化するために、ボディサイズの標準化を行います。最も大きなサイズを「1」とし、最も小さなサイズを「3」として、その間に「2 1/2」と「2」のサイズを設定します。1854年になると、最大の「0」と最小「5」のサイズが加えられます。当然、その時から「4」のサイズがあっても良さそうなのですが、4サイズのギターは1857年まで記録にありません。これらの小さなサイズのギターは、今から見るといかにも小さいのですが、当時の基準からしても、小さなギターでした。それらのギターは“ters guitars”と呼ばれており、ラテン語のtertius(英語のthirdの語源)からつけられたのですが、通常は一般のギターよりも3度上げでチューニングされていました。スタイルを表す数字が初めて登場するのも同時期になります。スタイル17が1856年、スタイル18と27が1857年に登場します。これらのスタイルの標準化によって、全てのマーチンギターは、0-18のように、サイズとスタイルを表す2種類の数字を“−”でつないで表記するようになります。この簡潔な表記方法によって、モデルの種類が増えても混乱することなく、最小限の説明ですむようになりました。ただ、1800年代のスタイルの仕様書が残されておらず、当時のギターを実際に見て検証するしかないのですが、その頃は、ラベルがギターではなくケースに貼られていたため、検証が難しいのが実情です。スタイル17のギターは、オールマホガニーのギターとして知られていますが、1800年代にはバックとサイドはローズウッドで、トップはスプルースで作られていました。また、スタイル18はバック・サイドがマホガニー、トップがスプルースのギターとして有名ですが、これも1800年代にはローズウッドで作られています。1857年頃、ナザレスの土地を持っていたキリスト教モラビス派が不動産を売りに出します。そこで、C.F.Martinは土地を購入し、1859年に自宅を建て、自宅の裏に工場を建築します。その後、工場は街の1ブロックを占めるまでに大きくなります。1867年、C.F.Martinが71歳のときに、長男(C.F.Martinには2人の息子と3人の娘がいました)のChristian Frederick Martin ,Jr.と、甥のChristian Frederick Hartmanが経営に加わります。その6年後、1873年2月16日にマーチンの創業者は他界します。

 


 マーチンのコピー

Christian Frederick Martin,Jr. が1870年頃、ギターの製造ラインが拡張され、価格表には11種類のスタイル(17、18、20、21、24、26、27、28、34、40、42)と、3から0(2 1/2も含む)までのサイズが表記されるようになります。20シリーズのモデルは木製の縁取りがあるだけ(27は例外的にアヴァロンのサウンドホールリングがあります)で、30シリーズになると木製の縁取りにアヴァロン(アワビ)のサウンドホールリングが加わります。40シリーズでは、アヴァロンのサウンドホールに加えて、エッジトリムもアヴァロンになります。価格は、3-17や2 1/2-17が$36で、スタイルの数字が大きくなるに従って高くなり、一番高い2-42が$90でした。この価格は1920年まで大きな変化はありません。1870年代になって、バンジョーがより大きな音を出す構造になるにつれて、マーチンもより大きな音が出るようにギターのサイズを大きくし、1877年には00サイズを作ります。1880年頃になると、マーチンという名前も有名になり、偽物が現れるようになります。この頃のマーチンでは、“伝統の持つ信頼性”をうたっていたのですが、広告に「類似した名前の会社が見られますが、当社とは一切関係ありません」という注意書きをするようになります。実際に、ニューヨークにG. Robert Martinというギターメーカーがあり、自分の会社の広告で「有名なマーチンギターのメーカー」と表現して、C.F.Martinのギターと混乱が生じるのを狙っていたようです。この時期、まだ子供のいなかったChristian Frederick Martin ,Jr.の奥さんが亡くなりますが、その後再婚し、1866年、C.F.Jr.が41歳のときに、最初の子供であるFrank Henry Martinが誕生します。C.F.Martin Jr.は1888年、63歳で逝去するのですが、会社は22歳の息子の手に委ねられます。そして、Frank Henryも父や祖父と同様に、ギターの事業を引き継いで会社を発展させることになります。

 


 マンドリンの流行

Frank Henry Martin Frank Henryの時代は、バンジョーが流行していた父親や祖父の頃とは違う時代になっていました。1880年、彼が14歳のとき、「The Spanish Students(スペインの学生)」という音楽グループ(実際にフィガロ大学の学生で、ヨーロッパでは“Estudiantes Figaro”という名前で有名でした)の出演する番組がニューヨークでヒットし、1964年のビートルズに相当するような大人気となります。The Spanish Studentsは“bandurrias”という小型の複弦の楽器を弾いていたのですが、アメリカではマンドリンと呼ばれるようになります。Frank Henryが10代の頃、マンドリンはアメリカ中で一大ブームとなり、1888年に彼が会社を引き継いだときには、マンドリンはフレット付き楽器の中で最も流行しているものになっていました。1890年代は、写真の普及の影響もあって、音楽の分野も活気を見せるのですが、Frank Henryは、マーチンを楽器製造における最前線の企業にすることを目指して、マーチンで最初のマンドリン製作を企画します。マンドリンの製造については、社内に反対はなかったのですが、マーチンの総代理店をやっていたC.A.Zoebisch社が反対していたため、結果として、代理店を通して楽器を販売することを止め、ナザレスの工場から直接販売する方法をとることになります。直接販売というだけでも、販売や流通の知識もなく、田舎に位置する工場にとっては、かなり無謀ともいえるのですが、その上に、全く新たな楽器の製造ラインを作るという決断をしたのです。そんな状況で、売り上げを落とさずにどうやって乗り切ったのかは謎なのですが、Chris Martinによると、代理店のZoebischから引き継いだ注文書に小売店の名前があり、その小売店に「マーチンは直売に変りました。引き続きお取引き願えますか」という手紙を出したのだろうと推測しています。

 

マーチンのマンドリンは1895年にデビューします。形は後ろが丸くふくらんだボウルバックで、42本のリブ(丸い形に曲げた笹の葉状の木の部品)で構成されています。トップはフラットピースで、ブリッジの下で曲がった形状をしています。このマンドリンは、マーチンでも高い成功を収め、1913年まで、年間平均で250台を製造する結果となります(ギターよりも少し多い数)。しかし、1910年頃になると、ほとんどのマンドリンプレイヤーは、ギブソンスタイルの木を彫ったマンドリンに持ち替え、ボウルバックは時代遅れとなってしまいます。マーチンもよりギターに近い(よりbandurriasに近い)マンドリンを1914年に出すのですが、トップは曲げたままのスタイルでした。今でこそマーチンのマンドリンは評価されないのですが、当時は経営を支える存在であり、1910年代後半から1920年代にかけて、年間500台程度生産していました。(ギターの生産はこの頃、年間1000台を越えます)マーチンのマンドリン作りが原因で、総代理店であったニューヨークのZoebisch社と関係を解消することになったのですが、そのため、1898年には商標のスタンプ表記も、それまでの“New York”から“Nazareth, Pa.”へ変更します。この変更は、ギター収集家の間では「ニューヨークマーチンの終わり」として有名なのですが、実際には、表記に関係なく、1839年以降ニューヨークでギターは作っていません。1900年前後は、マンドリンとバンジョーがギターを席巻する勢いを持っていたのですが、ギタリストは、より大きな音量を出すために、より大きなギターを求めるようになります。その頃のマーチンのギターで最大のものは、14 1/8インチ幅の00サイズなのですが、2 1/2サイズのギターと並べると大きく見える(幅も2 1/2インチ広い)ものの、ギブソン(1902年創立)の18インチの巨大なギターと比べると、いかにも小さなギターとしか見えない存在でした。そこで、マーチンでも1902年に15インチ幅(ボディの深さは同じ)の000サイズを開発します。000サイズは、同じスタイルであれば00サイズより$5だけ高い価格に設定したのですが、最初の20年間は、わずかに104台しか売れないという失敗に終ります。その後、1926年になると、000-18だけで224台という販売数の伸びを見せます。

 


 パールインレイの採用

その頃のマンドリンは、一番地味なモデルでも、ピックガードには渦巻き模様のパールインレイが入り、ペグヘッドには大きな彫刻が施されており、最も派手なギターである00-42よりも目立つものでした。マンドリンの製造がギターの販売にプラスになると考えていたFrank Henryは、ギターでも、見栄えの良さが販売の決め手になると考えます。競争相手のLyon&Healy社などは、ギターにパールインレイだらけの指板を使っていましたが、1890年代のマーチンギターの指板には全くパールインレイは使われておらず、1898年になってようやく、マーチンもスタイル42の指板で、5フレットの雪の結晶の形をしたスノウフレイクから始まって、3箇所にインレイを入れます。スタイル30と34では、切れ込みの入ったダイヤモンド模様のインレイを2箇所に入れ、9フレットにはマルタ十字のインレイが入ります。1901年になると、指板のパールインレイはいろんなギターにも入るようになり、スタイル17と18には丸いスモールドット、スタイル21にはスクェア・インレイ、スタイル28にはダイアモンド・インレイが入りました。

 

1902年になると、マーチンでも堰を切ったようにパールインレイを使い始め、ギターのトップだけでなく、サイドやバックの縁にもインレイを入れ、ペグヘッドには複雑な渦巻き模様を施すようになります。この派手なインレイの最初のモデルは、1902年に特注で作ったスタイル42なのですが、1904年には自社のデザインでスタイル45を作ります。最初、スタイル45は、000サイズだけでなく、サイズ0や00もあまり売れず、1920年代になるまで、年間に10台売れるかどうかという状態でした。1910年頃まで、マーチンの経営状態は決して良いものではありません。マンドリンの流行には乗れたものの、バンジョーが再び人気を取り戻し、ギターが売れなくなってきます。サイズ000やスタイル45を作って、マーチンの高級機種を増やしても売上げは好転しないため、1907年の経営危機を契機として安価なギターに重点を置くようになります。1856年当時、最も安いギターだったスタイル17は、1898年に一旦廃止となったのですが、1906年に、サイズ1、0、00で復活し、価格もそれぞれ$20、$20、$25という破格の値段をつけます。また、スタイル18の価格も20〜30%下げ、1-18、0-18、00-18の価格は各$25、$25、$30という値段になります。

 


 マホガニーギターの登場

1906年、マーチンでも低位機種であるスタイル17で、バックとサイドにマホガニーを使うという、マーチンギターの歴史上、画期的な変更が行なわれます。この頃、マホガニーはギターのボディ素材としては劣ったものとされており、全てのギターメーカーでローズウッドが使われていました。例外はギブソンで、ウォルナット(クルミ材)から始まり、その後、メープル(実際はカバノキでしたが)に変更します。実際に使用してみると、マホガニーはギターに適した材料だったため、1917年にはスタイル18もローズウッドからマホガニーに変更となります(その結果、スタイル17は製造中止となります)。また、ネック素材としてもシダー(ヒマラヤ杉)よりも優れていることがわかり、1916年には全てのマーチンのネックがマホガニーになると同時に、ネックとペグヘッドがワンピースで作られるようになります。それまでペグヘッドとの継ぎ目に使われていたダイアモンド・ヴォルートは、飾りとして、スタイル28以上のギター(近年の30シリーズと60シリーズを除く)で残されます。最近の素材への変更は1918年にも起こっており、バインディングでも、それまで使っていた本象牙から、象牙のような粒子を混ぜた白いセルロイド(アイボロイドと呼ばれます)に変更となります。

 

第一次世界大戦が終った1918年は、アメリカで新しい文化が始まった年とされており、ジャズの流行と共に、トランペットやサキソフォンがリード楽器として登場します。そして、マンドリンオーケストラの甘い演奏は姿を消しますが、鉄弦のバンジョーが台頭してきます。マンドリンの流行のときには、マーチンも自社で生産して成功を収めたのですが、ドラムのようなボディと数多くの鉄の部品で作るバンジョーとなると、事情が異なったようで、1923年から1926年の間に、96台を製造しただけで終りました。マーチンにとって幸いなことに、同時期に(1915年の博覧会を契機として)、ハワイアン音楽とともに、膝の上でスチールバーで弾くハワイアンスタイルのギターが流行します。マーチンは、高いナットに角度のない真っ直ぐのブリッジがついているハワイアン用ギターを最初に作った会社のひとつなのですが、ブームとなる前の1914年には00-21Hを試作し、1917年には製造に乗り出します。新しいモデルはトップ、バック、サイドともハワイアンコアで作られ、初年度こそ販売は低調(6台の0-28K、2台の1-18K、コアの00-40は1台)だったものの、1918年には製造ラインを拡張し、0-18K(最も売れたコアモデルになります)と0-21Kも加わります。

 

 オーケストラモデル ( OM )

ギターの流行に伴い、腕に自信のあるプレイヤーは、自分のテクニックを見せるために、より長いネックを求めるようになるのですが、アトランタのPerry Bechtelも、そんなプレイヤーの一人でした。彼は、バンジョープレイヤーとして指板の上から下まで全体を使って演奏することに慣れており、ギターを弾く場合には14フレットネックを使っていたのですが、アーチトップ(Gibson L-5)でした。当時、Gibsonはフラットトップギターに参入したばかりで、1926年に13 1/2インチ幅の小さなギターを作っただけでしたので、プロの求める品質を持つフラットトップとなるとマーチンに相談するしかないという状況だったのです。Chris Martinが聞いたところによると、「Perry Bechtelがやってきて『バンジョーみたいに弾けるギターを作って欲しい』と言われ、000ギターのショルダーを四角に切り落として14フレットネックにし、指板の幅も狭くしたギターを作ったところ、最初は気に入らなかったものの、弾いてみるといい感じだったらしく、『これでいい』ということになった」とのこと。このBechtelのギターは、000-28を14フレットジョイントになるようにボディを短くしたもので、1929年に作られました。マーチンでは、そのモデルをビッグ・バンドで使うのだろうと考え、“オーケストラモデル(OM)”と名付けたと言われています。OMは1930年にカタログに掲載されます。カタログではスタイル18(最初は$60で、1932年に$50となり、1933年に$55になります)、28(同様に$90、$85、$90)、45($180、$170、$175)に加え、特別仕様の45 Deluxe($225)があり、似ている000モデルよりも、値段は若干高く(差は$10以内)設定されていました。

 

OMには、ネックが長いという他にも、おそらくBechtelがペクトラムバンジョープレイヤーだったということからくるいくつかの特徴があります。まず、スケール(弦の長さ)は000の24.9インチに対して、OMでは25.4インチあり(ペクトラムバンジョーは通常、26インチ以上あります)、ペグヘッドもバンジョースタイルになっています。また、OMは全てスチール弦仕様なのですが、ベッコウ柄のセルロイドで出来たピックガードがトップに糊付けされています。OMモデルは長く続かず、1933年に無くなります。これは、売れなかったかたというのではなく、14フレットネックがほとんどのモデルに採用されるようになった(0-17と0-18には1932年、他のモデルも1934年には、ローズウッドの0と00モデルを除いて、14フレットになります)ためであり、ピックガードも全てのスチール弦ギターで標準仕様となります。OMモデルは1934年に000に吸収される形になるのですが、新仕様のギターはOMとして開発された、14フレットネックに新しいボディの形と、ソリッドタイプ(ストテッドでない)のペグヘッドにピックガード、ロングスケール(短期間で24.9インチに戻されます)という形でした。そうなると、実際にはOMと呼ぶべきなのですが、マーチンは伝統的なモデルの区分体系に従って、000と呼ぶことにしたのです。また、1930年10月からは全てのギターのネックブロックにモデル名が刻印されます。

 

 ガット弦からスチール弦へ

ハワイアン仕様は標準のモデルでも可能で、00-17H、00-18H、00-40Hなどがありましたが、最も売れていたのは、オールマホガニーの小さなギターである、2-17Hでした。1910年代まで生産ラインから外れていた、パールの飾りがついたスタイル40も00-40Hとして復活し、1928年から1939年にかけて、スタイル42や45を凌ぐ売り上げとなります(00-40Kも少数作られたのですが、標準仕様の00-40は1920年代から30年代にかけては作られていません)。なお、2-17Hは1927年から1931年にかけて作られ、0-17Hは1930年から39年まで作られます。ハワイアンのギターは、1927年には0-18Kと0-28Kの合計販売台数が650台、2-17Hは200台となり、これら3機種でその年の販売の15%を超える台数を記録します。ハワイアン音楽の流行は、ハワイアン仕様でないマーチンギターにも大きな影響を与えます。マーチン社ではこれまで、ガット弦用のギターを作っていたのですが、1900年代の初期になると、ギブソンやラーソンブラザーズなどがスチール弦用ギターのデザインを始めます。ハワイアンではスチール弦の大きな音が好まれていたのですが、一般のギタリストの間でも、スチール弦の出すマンドリンやバンジョーに負けないような音の要求が高まっていました。そこで、マーチン社でも1922年に2-17のギターのトップを厚くし、スチール弦に耐え得る仕様のギターを作ります。このギターの価格は$25だったのですが、同年だけで344台の販売を達成します。2-17の販売台数は翌年には2倍以上となり、1926年になると全生産台数の28%である1300台を売り上げます。スチール弦対応のギターは急速に広がりを見せ、1923年にはスタイル18、1925年にはスタイル28がスチール弦対応となります。

 

2-17の販売拡大を契機として、手頃な価格のギターの重要性が見直されるようになります。1926年当時、2-17の価格は$32.50だったのですが、0-18は$35、ローズウッドのギターで一番安い0-21が$50でした。同年の販売台数は2-17が1300台、0-18が900台、0-21は195台です。この価格についての教訓は、3年後にアメリカ社会を襲う大恐慌の時に生かされることになります。テンションの強いスチール弦の登場によって、ギターの構造にも変化が生まれます。1920年代半ばには、ネック内部にエボニーによる補強(1934年にはスチールのTバーに変ります)が行われ、1929年には、トップとの接触面がより大きなベリーブリッジが採用されます。ハワイアンの流行はギターの販売に大きな影響を与えましたが、マーチンにとって本当の意味での“ブーム”は、ウクレレの販売に現れます。マーチンでは1907年からウクレレを作っていたのですが、最初は、ギターのように重い木材を使ったスプルーストップのものでした。それが、1915年のハワイアンブームを契機として、本格的にウクレレの製造に乗り出します。安っぽいオモチャのようなウクレレは、多くの会社で作られていたのですが、マーチンではマホガニー単板のスタイル0から、コアにインレイの入ったスタイル5Kまで、全て高品質のウクレレを製作します。サイズも、6 3/8inの標準(ソプラノ)サイズの他、コンサート(7 5/8in)、テナー(8 15/16in)、コンサートと同じサイズで複弦のタロパッチなどを製作します。1960年代になると、もう少し大きな(10in)バリトンウクレレも登場します。

 

Tiple
同時期にマーチンが作っていた楽器に“Tiple”(スペイン語で「小さなギター」という意味)というものがあります。南米の小型の民族楽器を原型にし、10本のスチール弦を4つの音階にしたもので、12弦ギターと大きなウクレレの中間にあるような楽器です。この楽器は1919年に作られ始め、主にスタイル17(後にスタイル15)、18、28で製作されます。製造のピークとなる1926年には681台作られますが、その後年間50〜100本のペースとなり、1970年代まで製造されました。1929年まで、バンジョー弾きがより多用途のギターに転向したこともあって、マーチンでもギターの売り上げが大きく伸びます。この新たな傾向を示す好い例がテナーギターの登場です。ギターのボディにテナーバンジョーのネックを付けた形のこのギターによって、バンジョーからギターへの持ち替えが簡単にできるようになります。

 

0-18T
1927年に、最初のテナーギターである2-17Tを作り、15台が売れます。1-18Tも3台売れるのですが、その後、バンジョーネックのついたサイズ1は1-18Pのように、“ペクトラムネック”モデルと呼ばれるようになります。0サイズでテナーネックのついたスタイル18は、1929年から作られ、初年度に34台、1930年になると327台を販売します。1930年代になると0-18Tの販売は低迷するのですが、1960年代に人気が復活します。1929年10月28日、アメリカの株式市場が暴落し、時代は大恐慌に突入します。そんな不景気の中、バインディングを取り、価格を$25に下げた2-17が再登場します(この時は#25と呼んでいました)。この方策が功を奏し、1929年に25台、1930年には750台という、他のギターを凌ぐ台数を販売します。テナー仕様の2-17Tも順調に売れたため、1930年には0と00サイズのスタイル17も販売し、同じサイズのギターの中で最も売れたスタイルとなります。この不況時にマーチンにとって幸いだったことが、カントリーミュージックの父とも言われた大スターのJimmy Rogersがマーチンギターを使ってくれていたことです。1920年代初めの写真にはスチール弦を張った2-17が一緒に写っており、1927年の最初のレコーディングには00-18が使われていました。スターとなってからは、パールのバインディングが入って、指板に名前の入ったカスタムモデルを使用していました。

 

 

 オーケストラモデル ( OM )

ギターの流行に伴い、腕に自信のあるプレイヤーは、自分のテクニックを見せるために、より長いネックを求めるようになるのですが、アトランタのPerry Bechtelも、そんなプレイヤーの一人でした。彼は、バンジョープレイヤーとして指板の上から下まで全体を使って演奏することに慣れており、ギターを弾く場合には14フレットネックを使っていたのですが、アーチトップ(Gibson L-5)でした。当時、Gibsonはフラットトップギターに参入したばかりで、1926年に13 1/2インチ幅の小さなギターを作っただけでしたので、プロの求める品質を持つフラットトップとなるとマーチンに相談するしかないという状況だったのです。Chris Martinが聞いたところによると、「Perry Bechtelがやってきて『バンジョーみたいに弾けるギターを作って欲しい』と言われ、000ギターのショルダーを四角に切り落として14フレットネックにし、指板の幅も狭くしたギターを作ったところ、最初は気に入らなかったものの、弾いてみるといい感じだったらしく、『これでいい』ということになった」とのこと。このBechtelのギターは、000-28を14フレットジョイントになるようにボディを短くしたもので、1929年に作られました。マーチンでは、そのモデルをビッグ・バンドで使うのだろうと考え、“オーケストラモデル(OM)”と名付けたと言われています。

 

OMは1930年にカタログに掲載されます。カタログではスタイル18(最初は$60で、1932年に$50となり、1933年に$55になります)、28(同様に$90、$85、$90)、45($180、$170、$175)に加え、特別仕様の45 Deluxe($225)があり、似ている000モデルよりも、値段は若干高く(差は$10以内)設定されていました。OMには、ネックが長いという他にも、おそらくBechtelがペクトラムバンジョープレイヤーだったということからくるいくつかの特徴があります。まず、スケール(弦の長さ)は000の24.9インチに対して、OMでは25.4インチあり(ペクトラムバンジョーは通常、26インチ以上あります)、ペグヘッドもバンジョースタイルになっています。また、OMは全てスチール弦仕様なのですが、ベッコウ柄のセルロイドで出来たピックガードがトップに糊付けされています。OMモデルは長く続かず、1933年に無くなります。これは、売れなかったかたというのではなく、14フレットネックがほとんどのモデルに採用されるようになった(0-17と0-18には1932年、他のモデルも1934年には、ローズウッドの0と00モデルを除いて、14フレットになります)ためであり、ピックガードも全てのスチール弦ギターで標準仕様となります。OMモデルは1934年に000に吸収される形になるのですが、新仕様のギターはOMとして開発された、14フレットネックに新しいボディの形と、ソリッドタイプ(ストテッドでない)のペグヘッドにピックガード、ロングスケール(短期間で24.9インチに戻されます)という形でした。そうなると、実際にはOMと呼ぶべきなのですが、マーチンは伝統的なモデルの区分体系に従って、000と呼ぶことにしたのです。また、1930年10月からは全てのギターのネックブロックにモデル名が刻印されます。

 

 アーチトップギター

時代はまだ不景気の真っ只中であり、ギターの販売も低迷していたのですが、Henry Martinは大胆な攻めのビジネスを展開します(対称的に、ギブソンは1931年から1934年にかけて、木製玩具の製造を主に行っていました)。多くのマーチンファンの間で1931年は、マーチンが最初の大型サイズのギターである“Dreadnoughts”を作った、栄光の時代の始まりと考えられていますが、その前に、マーチンの先見の明を示す、新たなギターの開発があります。1931年、マーチンはギターの世界で滅多にない大きな転機を迎えようとしていることに気付きます。この転機というのが、バイオリンのコンセプトでトップとバックを湾曲させた、アーチトップギターの存在でした。1890年代にOrville Gibsonによって開発され、1920年代にギブソンのLloyd Loarによって完成されたアーチトップギターは大きく、衝撃的な音を出すギターとして、1930年代にジャズバンドのプレイヤーに大人気となります。1931年頃、ギブソンはまだ木製玩具の製造に傾注しており、ニューヨークでバンジョーを作っているEpiphone社が、ブームを予見して f ホールギターの製造ラインを作ったものの、他の弦楽器メーカーの中で、間もなく訪れるブームを意識していたのは、保守的なフラットトップギターメーカーであるマーチンだけという状況でした。

 

C-1  round hole

マーチンはマーチンらしくない情熱をもって、アーチトップギターの製造に参入し、3種類のギターを作ります。ボディは新しいOMスタイル(14フレットの000)なのですが、Cシリーズと名付けました。トップはギブソンスタイルに湾曲をさせ、バックはアーチ状にした上でブレイシングで補強しています。また、初期のギブソンと同様に丸いサウンドホールにします。C-1はスタイル18と似た仕様で、バックとサイドはマホガニーを使っています。C-2はローズウッドにスタイル28のトリム、C-3になると、金メッキのパーツに、指板にはスタイル45のスノウフレイクインレイが入っています。最初のアーチトップはマーチンでも重視されていたらしく、ペグヘッドにはM-A-R-T-I-Nという縦のロゴがインレイで入れられています(1934年には、“M”の左右に“C”と“F”を配置したロゴが加わります)。フラットトップのペグヘッドにも、1931年にはロゴが入るのですが、単にシルク印刷された“C.F.Martin&Co.,Est.1833”というものでした(1932年にはデカール−転写印刷−に変ります)。アーチトップは同列のフラットトップよりも高額に設定され、C-1は$80(000-18は$60)、C-2が$100(000-28は$90)、C-3で$200(OM-45が$180)という価格でした。初年度の販売台数は、C-1が139台、C-2が104台、C-3で21台で、1931年はマーチンのアーチトップにとって良い年だったといえます。そんな好調さもあって、アーチトップの安いモデルも作ることになり、1932年には00サイズの12フレットモデルを作ります(00モデルが14フレットの新ボディになるのは1933年)。最初の00サイズは、スタイル18の仕様で1932年に9台作られ、00-18Sのラベルが貼られています(“S”は、今では12フレットネックを指していますが、第2次大戦前まで“Special Feature”という意味で使われていました)。この00-18Sは、1933年からR-18に名前が変り、$50の価格で販売されます。最初の2年間の生産台数は481台、486台と順調なスタートを見せ、マーチンの代表的なアーチトップになります。1934年後半には、トップにマホガニーを使ったR-17が$40で販売されますが、R-18の販売台数に肩を並べることはありませんでした。ギタープレイヤーの間では、丸いサウンドホールよりも f ホールの人気が高く、マーチンでも1932年後半にC-1とC-2を、1933年前半にC-3、後半にはR-18も、それぞれ f ホールに変更します。


F-9
その後、アメリカの不景気が回復傾向になるのに伴い、マーチンでは高級機種も増やすことになります。1935年には、ローズウッドボディのF-7とF-9が発売となるのですが、F-7にはヘキサゴンインレイがフレットの6箇所に入り、F-9では8箇所に入っています。また、両方ともペグヘッドにはマーチンの縦ロゴのインレイと45スタイルのバックストライプが施されており、F-9には金メッキのパーツが使われました。Fシリーズでは、000の幅を16インチに広げた新しいスタイル(実際には0000)が採用され、マーチン最大のボディとなります。F-7は$175、F-9が$250で販売され、初年度こそ、それぞれ91台、28台が売れるものの、その後販売は低迷します。1940年になるとFシリーズも低機種に拡大し、スタイル18仕様のF-1とスタイル28仕様のF-2を、それぞれ$85と$135で発売します。これらも、初年度にはF-1が54台、F-2が22台売れますが、これまで同様、販売は伸び悩みます。マーチンのアーチトップには致命的な弱点がありました。まず、ボディがローズウッドかマホガニーだった点。確かに、ユニークな音なのですがギブソンやエピフォン、グレッチなどのメープルギターが出す力強いパワーに欠けていました。また、それらのメーカーのギターサイズに対抗できるだけのボディの大きさにも欠けていました。マーチンでようやく16インチ幅になったのが1935年のことなのですが、他メーカーは、最初こそ16インチ幅だったものの、17インチになり、1934年には18インチ幅になっていたのです。1942年には、マーチンのアーチトップの売り上げは、8つのモデルの合計で194台までに落ち込みます。その後、第2次世界大戦が始まると共に、ヘキサゴンインレイ、0000のボディスタイル、ペグヘッドの縦ロゴ、黒と白のプラスチックのレイヤーなどを名残にして、アーチトップギターの製造は中止となります。

 

 

 ドレッドノートの開発

Diston V
マーチンが新たな挑戦を行っていた1930年代、時を同じくしてOMやアーチトップを凌ぐ別の開発を行います。より大きな音量を持つギターに対する需要の高まりは、マーチンのより大きなフラットトップの製造を後押ししていたのですが、なぜかマーチンは、15インチ幅の000の幅を広げるという手段をとりませんでした。その代わりに、かつて特注で作っていたボディの形を復活させるという、最も簡単な方法をとります。そのボディは、くびれの部分が太く、上部のふくらみの幅も広い、“スクウェア・ショルダー”と呼ばれるようになる、箱型のスタイルをしており、マーチンでは、このボディのギターを1916年からボストンにあるOliver Diston社の注文で数種類作っていたのです。最も大きなDistonは15 5/8インチ幅なのですが、マーチンでは1931年にその紙型を取り出し、マホガニーとローズウッドでいくつかのギターを作ってみます。これらの新しいギターは、000を大きくしたという形ではなかったためか、ドレッドノート(dreadnought)を示す“D”という新たな名前がつけられます。このドレッドノートという名前は、1906年にイギリスで建造されたHMS Dreadnoughtという、有名な大型戦艦の名前から付けられたものです。本来は、ドレッドノートギターはスタイル18と28だったのですが、最初の試作機にはD-1とD-2というスタンプが押されます。そして、1932年に、D-18とD-28というモデル名に変更となります。

 

最初に作られたドレッドノートは、Distonの頃と同様に、12フレットでスロテッドヘッドをしていました。販売はあまり伸びず、最初の3年間で13台のD-18と17台のD-28が売れただけです。1934年になると14フレットジョイントでボディを短くしたDサイズが作られます。1935年には価格表にも掲載され、D-18が$65、D-28が$100で、同列の000よりも$10高い価格に設定されます。マーチンのドレッドノートは、カントリーやブルーグラス、後にはフォークなど、音の大きさと伸びが要求される音楽を演奏するギタリストの間で、比類ない存在としての地位を確立します。

 

 カウボーイの45

その頃、マーチンギターを使っていた有名な歌手に、シカゴのWLSラジオのスターで、“オクラホマの歌うカウボーイ”と呼ばれていた、ジーン・オートリー(Gene Autry)がいます。オートリーは高校を卒業して鉄道会社に就職した年に0-42、翌年には00-42を買っているのですが、D-18も、発売間もない時期に購入します。そして、その次のマーチンギターとして、1933年彼はマーチンで最も有名なギターとなる、最初のD-45(#53177)を、Chicago Musical Instrument Co.を通じて手に入れます。その頃、オートリーはすでに国民的なスターになっており、ラジオを聞いていなくと、1931年にヒットした“That Silver Haired Daddy of Mine”で広く知られていました。彼は、自分の名声にふさわしいギターとして、最も大きく、最も豪華なギターをマーチンにカスタムオーダーし(その頃、D-45はまだ販売していません)、指板には彼の名前をパールインレイで入れます。D-18やD-28同様、1933年当時はD-45も12フレットネックにスロテッドヘッドであり、1934年に彼の次にカスタムで作ったミルウォーキーのJackie 'Kid' MooreのD-45も、12フレットネックで指板に名前を入れたものでした。

 

<オリジナルD-45の全リスト>
年 スタイル 特別仕様 シリアル 合計
1933 D-45 Gene Autry 53177 1
1934 D-45S Jackie 'Kid' Moore 56394 1
1936 D-45S Wide Body (16 1/4in) 63715 1
D-45S Wide Body 64890 1
1937 D-45 14 frets, 2guards 65265 1
D-45S 12 fret, solid head 67460 1
1938 D-45   70592-94 3
D-45   71039-41 3
D-45   71663-65 3
1939 D-45   72160-62 3
D-45S Special Neck 72460 1
D-45   72740-42 3
D-45   73126-31 6
D-45S   74011 1
1940 D-45   74161-66 6
D-45   75100-05 6
D-45L Left Hand Style 75289 1
D-45   75593-98 6
1941 D-45   77060-65 6
D-45   78629-34 6
D-45   78879-84 6
D-45   79583-88 6
1942 D-45   80740-45 6
D-45S Austin 81242 1
D-45   81578-83 6
D-45   82567-72 6

 

オートリーのD-45は、マーチンを知ってもらうのには役立ったものの、D-45の販売は思わしくありませんでした。1939年に指板のインレイを小さなスノウフレイクから、Fシリーズで使っていた大きなヘキサゴンに変更し、初めて、年間10台以上の売り上げとなります。D-45は1938年の価格表に$200で記載され、その後$250となります。この価格は、ギブソンのアーチトップである“スーパー400”の$400と比較すると、そう高くはないのですが、収入の多くない田舎に住むカントリーファンやウェスタン歌手には、手の届かない値段だったのかも知れません。その結果、D-45は1933年から1942年の間に、91台が製造されただけとなります。同様に、D-45よりも$10〜$25安い000-45の売り上げも低迷します。第2次世界大戦の影響で、1942年10月には、全てのパールトリムを使ったギター(スタイル40、42、45)の製造が中止となり、1968年になってようやく復活します。1930年代にはいろんな仕様変更があったのですが、1934年にはフレットのワイヤが、バーフレットからT字形のフレットに変ります。

 

 ガットギターへの回帰

00-28G
これまで述べたように、マーチンでは、1930年代にさまざまな新たな領域にチャレンジしているのですが、1936年には、00-18Gと00-28Gという2種類のクラシックモデルを導入します。ガット弦を表すGという名前をわざわざ付けていることを考えると、この頃には、スタンダードモデルでのスチール弦仕様が標準になっていたと思われます。これらのGモデルには、スタンダードモデルの00-18と00-28の木材と装飾をそのまま使用しており、クラシックギターを新たに作るのか、マーチンらしさを残すのかで、気持ちが揺れていたことが想像されます。ネックはクラシックギターの幅で12フレットジョイントなのですが、ボディは14フレットのマーチンギターそのままという状態でした。トップも、クラシックスタイルのファンブレイシングのギターもあるのですが、どうやら、Xブレイシングを初めて開発した会社として、ブレイシングを変えることに抵抗があったらしく、Xブレイシングのままで作られているGモデルもあります。ブリッジも同様で、クラシックスタイルのブリッジに弦を通して結ぶタイプもあれば、マーチンの標準仕様であるベリーブリッジにブリッジピンで弦をとめるタイプもあり、1930年代後半のガット弦のマーチンギターでは、これらの異なった仕様を組み合わせることができました。(実際には、大半のGモデルがファンブレイシングとループブリッジでしたが)エピフォンは1938年、ギブソンも1939年にガット弦仕様のギターを発売するのですが、このような動きの背景には、スチール弦に変わることで10年足らずの間にギターが大きな人気となる中で、クラシックギターの人気も出るのではという、淡い期待があったのかも知れません。00-18Gは$50、00-28Gは$85で、それぞれGでない同列のギターよりも$5ほど高く設定されており、00-28Gは、人気がなくて製造中止(1937年)になった00-28と交代するかのように登場します。また、Gシリーズの初年度には、スタイル21、42、44もわずかながら製造されます。

 

 

 第二次世界大戦の影響

ガットギターが発売になった頃、ほとんどのプレイヤーはスチール弦を張ったギターを使用しており、1930年代の中頃には、大きな音量を求めて、よりヘビーなゲージの弦を使い始めます。マーチンでは、トップの強い振動に対応するために、いくつかの対策をとるのですが、まず、ブレイシングの変更から始めます。それまでXブレイシングがクロスする位置は、サウンドホールから1インチほど下だったのですが、トップの振動と弦のテンションを生み出すブリッジを強化するために、クロスの位置をサウンドホールからすこし離します。その変更は、ドレッドノート以外の小さなギターでは1935年、ドレッドノートでは1939年から40年頃に実施されます。また、マーチンのトップのブレイシングに使用される木製のバーは、トップの振動を最大にするためにところどころ削られて“スキャロップ”していたのですが、1944年の#89926からスキャロップ加工も中止となります。スキャロップの中止については、戦争で男性がいなくなり、ギター作りに女性を雇うことになったとき、加工技術を教えるのが大変だったからという説もあるのですが、Chris Martinが祖父に聞いたところによると、「そんな話はデマで、女性は男性同様に仕事をしてくれた。本当の理由は、ヘビー弦の使用にあって、トップが膨らんだギターを直すのが大変なのでスキャロップをやめると言ったけど、ほとんどの連中は気づいていなかった」のだそうです。第2次世界大戦で、実質的にパールインレイの入ったモデルは製造中止となるのですが、スタイル28のギターにも大きな影響がありました。1946年、戦争から解放されたとき、トップのヘリンボーントリムという最も有名な特徴がなくなります。Chris Martinによると、「材料はドイツから取り寄せていたのですが、アメリカはドイツと戦争をしていたので、在庫が無くなると、もう手に入れることはできなくなりました。私は、ドイツ人の間では、ヘリンボーンの代わりに、爆弾でも送ってくるような雰囲気があったので使うのを止めたのだと思っています」とのことです。一方で、マーチンの歴史を書いたMike Longworthによると、「マーチンは木製のパーフリングをヨーロッパから長年にわたって輸入していたのですが、その頃ヘリンボーンを扱っていたのはアメリカ人であり、戦争によって入手しにくくなったのと同時に、質も悪くなったのが原因」と書かれています。スタイル21では、サウンドホールリングのヘリンボーンは1947年まで続き、バックストライプのヘリンボーンも1948年初期まで使用されています。

 

戦争の前後の材料不足が原因で、スタイル28にはヘリンボーン以外にもいろんな変更が発生します。1944年、スモールダイヤモンドや四角形を使っていた指板のインレイはドット(小さな丸)に変り、1947年には、バックストライプも“ジグザグ”から狭いチェックのパターンに変更になります(1948年にはチェックが少し広くなります)。Xブレイシングの交差位置の変更、及びヘリンボーンとスキャロップの廃止は、マーチンギタープレイヤーからは“失敗”と見られていましたが、その後、ヴィンテージシリーズとして市場に再登場することになります。1976年にはHD-28でスキャロップとヘリンボーンが復活し、多くのスペシャルエディションで、Xブレイシングが元のサウンドホールに1インチ近い位置に戻されます。1930年代にいろんな開発をしたにもかかわらず、終戦後、マーチンは100年の歴史上、最も少ないギターのモデル数で再出発をすることになります。スタイルの種類は4つしかなく、地味でサイズも限られたものでした−17(0と00)、18(0からD)、21(0、00、000)、28(000とD)。他に、テナーギターで17と18、クラシックタイプは18と28を作っていました。戦後、マーチンの経営体制も変更になります。Frank Henry Martinは、1945年までに二度の戦争を体験し、マンドリンやテナーバンジョーの流行と衰退の中で、マーチンという会社を着実に成長させてきたのですが、1945年に退任し、1948年には逝去します。

 

 ブルーグラス

C.F. Martin,V
Frank Henry Martinの二人の息子のうち、長男のChristian Frederick Martin,V(友人からは、FredとかFritzと呼ばれていました)が、会社を引き継いで社長となります。20歳代の頃から経営の重責を負わされていたFrank Henryと違って、Fred Martinは51歳になっており、楽器業界ではベテランの年齢になっていました。マンドリンオーケストラの黄金期である1894年生まれのFred Martinは、彼自身もマンドリンやギター、ウクレレを演奏しており、マーチンのトップとしては唯一の本格的なミュージシャンでした。Fredは、15ヶ月若い弟のHerbert Keller Martinと一緒に、よく人前で演奏していました。また、家業であるMartin社でもチームで仕事をしており、もの静かなFredは製造に携わり、活発なHerbertは販売を担当していました。しかし、Herbertは腸閉塞が原因で腹膜炎となり、1927年に不遇の死を遂げます。C.F.Vが社長として事業を継いだ1945年頃には、彼がMartinで働き始めた頃と事業環境はすっかり変わっており、エレキギターが普及し始め、1950年代のロックンロールの産声が聞こえ始める時代になっていました。そして、マーチンにとって幸いなことに、戦後間もない時期、もうひとつの新たな音楽が生まれます。ブルーグラスという音楽は、1939年に“グランド・オール・オープリ”というラジオ番組でビル・モンローによって紹介されます。1940年代後半には、一緒にバンドを組んでいたレスター・フラットやアール・スクラッグスの人気が高まったこともあり、カントリーとブルースを融合させたハイスピードの音楽がひとつのジャンルとして確立します。同時に、いろんな伝統的音楽の演奏家がフォークミュージックという旗印の元、新たな音楽形態を作り始めます。そんな新たな音楽が大衆化するのはもう少し先になるのですが、この頃には、ブルーグラスやフォークの世界で、マーチンギターは無くてはならない存在になっていました。

 

ビル・モンローは、マンドリンプレイヤーとして知られていたのですが、彼の影響力には絶大なものがあり、彼のバンドで弾いているギターがどんなギターであっても、全てのブルーグラスで使われるギターのように認識されていました。そして、彼らが弾いていたのがマーチンギターだったのです。ビル・モンローがブルーグラスボーイズを結成する以前は、兄のCharlieと演奏しており、Charlieはギブソンのドレッドノートを使っていました。そして、1939年に、モンローはD-28を買います。モンローの息子のJamesによると、「今まで聞いたヘリンボーンの中で一番パワフルだった」というD-28を使って、1939年10月、モンローは“グランド・オール・オープリ”にデビューし、“Muleskinner Blues”を演奏する中で、ブルーグラスに欠かせないリフである“G-ラン”を披露します。レスター・フラットは、ブルーグラスボーイズの中でドレッドノートを使っていた一人であり、リードギターを弾いていなかったにもかかわらず、ギターを買う者にとって、大きな影響力を持っていました。1950年代の初め、フラットは主にD-18を使っていたのですが、彼の最も有名なギターといえば、D-28でした。彼はD-28を中古で購入し、1956年にマイク・ロングワースに指板のインレイと皮製のピックガードをカスタマイズしてもらいます。ロングワースに「今までで一番馬鹿げた発想」と言われた皮のピックガードは、間もなく、ナッシュビルのギターメーカーにベッコウ模様のプラスチックに張り替えられますが、1950年代の終わり頃になると、ブルーグラスプレイヤーの間では、「ギター=マーチンD-28」という状況が確立します。終戦直後、マーチンが製造していたギターの種類はあまり選択の余地がなく、パールインレイの飾りが入ったギターもない中では、既にヘリンボーンがないスタイル28でも、最も華やかなギターだったのです。ローズウッドのモデルは他にスタイル21があっただけですし、マホガニーボディでスプルーストップとなると、スタイル18しかありませんでした。

 

 フォークソングの誕生

ブルーグラスが、まだカントリーの一部にすぎないと思われていた頃、フォークが音楽のひとつのジャンルとして確立し始めます。1950年、ピート・シーガー率いる、男性3人、女性1人編成のウィーヴァーズ(Weavers)というグループがイスラエルのフォークソングである“ツェーナ・ツェーナ(Tzena, Tzena)”をシングルレコード化したところ、100万枚以上を売り上げ、7月1日付けビルボードで2位にランクされます。ビルボードの次号では、リードベリーの“Goodnight Irene”をアレンジした曲がナンバーワンヒットとなり、13週にわたって1位の座にあると共に、200万枚ものレコード売上を記録します。ウィーヴァーズの基本的な楽器構成はバンジョーとギターで、ギターはマーチンのクラシック弦仕様の00-28Gにシルクアンドスチール弦(コンパウンド)を張って使用していました。グループでギターを弾いていたFred Hellermanは、1950年に最初のマーチンとして00-28Gを購入し、フィンガーピックでもフラットピックでも使用していました。ただ、00-28Gはガット弦用に作られていたために、コンパウンド弦のテンションでブリッジが剥がれてしまい、ボルトで止めて(ボルトはインレイで隠していました)使っていたのですが、それでも、ファンブレイシングのトップにはテンションが強すぎるため、トップが大きく膨らんで変形してしまいます。使って40年が経過した頃、まだトップは変形したままだったのですが、Hellermanは「私は、心からこのギターが好きなんだ。触ってごらん、あなたのために歌ってくれるよ」といって、修理しなかったそうです。

 

ウィーヴァーズは、1952年にはヒットを次々と出すものの、マッカーシーによって反共産主義の雰囲気が高まり、グループはブラックリストに載せられます。マッカーシズムが吹き荒れる中、フォークが弾圧の対象となってしまう一方で、ロックンロールは弾圧を逃れていました。そんなロックの黎明期に、アコースティックギターであるマーチンも小さな役割を果たします。その当時のエルビス・プレスリーの最も有名なギターといえば、皮のカバーで覆われ、トップに自分の名前を書いたD-18でした。また、Eddie Cochranの1958年のヒット曲“Summertime Blues”で、強いストロークを奏でているのがD-28です。そんな間も、ウィーヴァーズは信念を貫いて演奏を続け、人々の良心とフォークの発展に大きな足跡を残します。Fred Hellermanはギターマーケットに影響を与えることはなかったものの、彼のスチール弦を張ったクラシックモデルは、“フォークギター”の試作ともいえる役割を果たします。マーチンの00-18Gと00-28Gの売り上げは、1950年代を通じて確実に伸び、ピークとなる1961年には、それぞれ、900台と177台が販売されます。同じ年、マーチンは0-16NYと00-21NYという、Xブレイシングトップにクラシックスタイルである幅広の12フレットネックを持つ、新たな“フォークモデル”を登場させます。(NYという名前は、ニューヨークでフォークがブームになっていたことにちなんで付けられたと思われます)Gシリーズは1年後に廃止となりますが、00-21NYは5年間作られ、年間約175台程度販売されます。一方で、00-16NYは、販売が低調になるまで、10年にわたって年平均500台もの生産が続きます。

 

 

 フォークブーム

マーチンにとっての大きな転機は、1958年に訪れます。その年に、キングストン・トリオがアパラチア地方のフォークソングである“トム・ドゥーリィ”を現代的にアレンジした曲でヒットチャートに登場した後、政治的な内容よりも音楽性の豊かさを強調したフォークソングのアルバムを1年で4枚続けて発表します。彼らの楽器構成は単純で、ボブ・シェインがD-28、ニック・レイノルズが0-18Tテナーギター(0-17Tと2-18Tも使っていました)、バンジョー担当のデイヴ・ガードは、時々D-28や00-21を弾いていました。シェインは、マーチンギターを使っていたフォークシンガーのジョシュ・ホワイトやスタン・ウィルソンから大きな影響を受け、1952年にSilvertoneギターを下取りに出して、マーチンのテナーを手に入れます。大学1年の頃、ニック・レイノルズに出会うのですが、レイノルズはウクレレしか弾けなかったため、テナーギターの弾き方を教えます。その後、シェインは6弦のギターであるD-28を弾くようになり、1987年にD-45を買うまで、ずっとD-28を使っていました。彼は、マーチンの音やルックスだけでなく、音作りの一貫性に惚れ込んでおり、「しばらく使って分かったことだけど、マーチンはギターが壊れたり紛失して、新しいものを買うことになっても、全く同じ音を出せるんだ」と言っていました。キングストン・トリオが最初のヒットを出して40年経った頃でも、シェインもレイノルズも新メンバーのジョージ・グローブも、同様にマーチンを使っていました。レイノルズは、フォークが全盛の頃にテナーギターを使っていた唯一の有名人であり、マーチンのテナーギターの販売増加は彼のおかげだと言えます。0-18Tは1950年代を通じて、年間60台程度だったのですが、1959年に、1947年以来初めて100台を超え、1962年のピーク時には251台の販売を記録します。それ以降も、トリオのヒットが出なくなった1967年まで、順調な売り上げを続けました。

 

レスター・フラットがブルーグラスのギタリストに影響を与えたように、シェインやレイノルズがフォーク好きに与えた影響は、ギターの卓越したテクニックというものではありませんでした。二人とも基本的にリズムプレイヤーなのですが、ピックを使わずに爪弾くスタイルでしたので、アマチュアでもキングストン・トリオのレコードに合わせて演奏することができたのです。そして、何千人ものアマチュアが、演奏するときにはマーチンギターを使っていたのです。ところが、そんなフォークブームでも、マーチンギターの販売台数が急激に伸びることはありませんでした。というのも、100年も経った古い工場には拡張の余地がなく、年間6千台のギター製造が限界だったのです。そこで、1964年に6万2千スクエア・フィートの工場をナザレスに新築し、1966年には、製造台数が初めて1万台を超えます。新しい工場では、フォークシンガーのトム・パクストンとジュディ・コリンズを招いて、ギターの出荷場を舞台に新築記念の演奏が行われました。トム・パクストンはマーチンを使っているプレイヤーとして知られていたのですが、最初にマーチンを買ったのは、1960年の軍隊を退役した日でした。そのギターは中古で、バックに穴が開いていたのを修理したもので、1964年にマーチンの新工場で演奏したギターもそのギターでした。マーチンが新しい工場へ引越す際、古い45スタイルのギターのトップ板が2枚見つかります。そのトップは、サウンドホール周りは既にアバロンインレイが入っているものの、トリムにはまだインレイが入っていない状態だったのですが、マーチン社にはアバロンがなかったため、古いD-28から取ったヘリンボーンの飾りが付けられます。そのトップを使って作ったギターが、パクストンとコリンズに新築記念のギターとして贈呈されました。

 

 

 12弦、エレクトリックギター

フォークブームに加え、12弦ギターを弾いていたHuddie Leadberry(Leadbelly、1949年没)が再評価されて人気になったため、マーチンも新しい12弦ギターモデルを開発します。最初は、12弦ギターの強いテンションがトップにダメージを与えるという判断から開発に難色を示していたのですが、1964年の終わりには発売を決定します。D12-20は、12フレットネックとスロテッドヘッドの他は、D-18と似た仕様(バックストライプはスタイル28仕様)でした。1965年にはローズウッドの12弦も、35のスタイルで発売となります。両モデルとも販売は順調で、D12-20は1969年と1970年には1600台を超える売り上げで、価格の高いD12-35も、1970年のピーク時には928台を販売します。これらのギターの成功で、1969年にスタイル45、1971年にスタイル28(14フレットネック)と41、1973年にはスタイル18(14フレットネック)が発売になります。しかし、1970年代も後半になると、12弦ブームも下火となり、1990年代になっても年間10本以上生産していたのはD12-28だけとなっていました。

 

GT-75
フォークブームの最中でも、エレクトリックギターの市場は魅力的だったため、マーチンも1959年に00-18E、D-18E、D-28Eと出します。しかし、音があまり良くなかったせいか、D-18Eは1年で製造中止となり、他の2種類も1964年には中止となります。本来であれば、もうエレクトリックギターの製造は止めても良かったのですが、1961年には新たにデザインした薄型のアーチトップのF-50、F-55(シングルカッタウェイ)とF-65(ダブルカッタウェイ)を発売し、4年後の1965年には、GT-70(シングルカッタウェイ)とGT-75(ダブルカッタウェイ)に変更になり、GTシリーズは1968年まで製造を続けます。これらのエレクトリックギターの生産は10年程度しか続かなかったのですが、価格的には競争力のある設定で、00-18Eが$190で登場し、Fシリーズは$225〜$310、GTシリーズが$340〜$395(12弦のGT-75は$425)、最も高いローズウッドのD-28Eが1965年に$490でした。ただ、エレクトリックギターは商業的には明らかに失敗であり、00-18EとD-18Eは発売初年度に300台を超える販売があったものの、Fシリーズは各モデルとも毎年100台を超える程度の売り上げしかなく、GT-75でも1966年に576台を記録したのが最高でした。また、1964年に新工場で生産ラインが拡張になったことで、これらのエレクトリックギターも生産を続けるという選択もあったのですが、アコースティックギターの売り上げが急伸していたため、エレクトリックは生産を中止することになります。

 

Frank Herbert Martin
フォークブームを契機として、マーチン社はこれまでの歴史上で最も売り上げが多く、騒々しいともいうべき時代を迎えるのですが、そんな時代の真っ只中に、C.F.Vの息子であるFrank Herbert Martinが登場します。これまでのマーチンの経営者と違って、1933年生まれのFrankは、家業を継ぐ義務があると考えずに育ってきました。高校時代を陸上競技の花形選手として過ごした後、自動車レースに夢中だったFrankは、1956年にC.F.Vに相談して、義理の兄弟と一緒に、ナザレスから約20マイル北にあるSeylorsburgという小さな町で輸入品を扱う店を開くきます。しかし、そのビジネスに失敗した上、自動車事故に遭い、父親として(1955年にChristian Frederick Martin Wが誕生していました)の責任を果たすためにも、1962年からマーチン社でセールスマネジャーとして働くことになり、“Martin Sales”という別会社を作ります。Frankは、冗談も言わない父親とは正反対に社交的な性格で、これまでのマーチンの家系の中ではユニークな存在だったせいか、父親は社長を退いた後も、会長(CEO)として会社に残ります。Frankは先進的な企業イメージを作ることを目指しており、彼自身が長髪で髭を生やしていたように、工場の従業員にもベルボトムのズボンでノーネクタイで働くという雰囲気がありました。

 

 

 ブラジリアンローズウッドの欠乏

1965年というと、ギター販売の拡大から、明るい将来展望に包まれていた頃なのですが、ドレッドノートの2ピースバックに使えるだけの大きさのブラジリアン・ローズウッドが不足するという問題が始まった時期でもありました。その時、マーチンにコンピュータを貸していたIBMの代理店で働いた後、マーチンの社員になったBob Johnsonが解決策を思いつきます。Johnson自身は、ギターコードをいくつか知っている程度で、ギター製造とは無縁の人生を送ってきたのですが、ギターに対する先入観がないのが幸いして、大きさの足りないローズウッドを使って、3ピースバックのドレッドノートを作ることを提案します。3ピースバックとなると、これまでの2ピースとは異なるブレイシングが必要となるため、いくつか試した後、バックには000タイプのブレイシングを採用します(トップは00タイプ)。3ピースバックでもギターとして機能するだけでなく、2ピースの持つ大きな響きを押さえながら、ローズウッドらいし長いサスティーを持つ、これまでのギターに無い特徴を持つギターになります。初期の30シリーズのようなサウンドホール周囲のインレイはないのですが、指板にはバインディングが施され、スタイル28よりも凝った作りとなったため、スタイル35と分類されます。

 

D-35は1965年に、D-28よりも$50高い$425の価格で登場します。このD-35は大成功を収め、1970年までにD-28と並ぶほどの売り上げ台数となり、1970年代の中盤にはD-28を超える販売台数を記録します。(その頃には、D-28との価格差は$20になっていました)また、12フレットネックのD-35Sも、D-28Sと並ぶ人気を持っていました。D-35の生みの親であるBob Johnsonは、現場担当の副社長となり、製造部門の責任者として1977年まで在任します。ローズウッドの不足は、D-35の開発でも解決せず、1969年にはブラジル政府はローズウッドの原木を輸出禁止としたため、ギターに使用できる品質を持った木材の量を確保することが不可能となってしまい、同年、マーチンは材料をインディアンローズウッドに切り替えます。D-35の開発に続く新たなモデルのアイデアは、Pres Rishawが思いつきます。Rishawのところには、かつて作っていたD-45についての問い合わせが数多く寄せられていたため、社内にプロジェクトを作って製造の可能性について検討を始めます。まず、D-45にふさわしい材料として、トップに使用する最高グレードのスプルースが若干見つかります。また、アバロンインレイを供給してくれる真珠加工業者もニューヨークで見つけます。そして、テネシー州でギターの修理を行っていたMike Longworthが、D-28にD-45のような装飾を施す技術を持っていたため、彼にインレイ加工の技術指導をしてもらうべく、ナザレスに来てもらいます。D-45は1968年、D-35の3倍近い値段となる$1200という価格で再登場します。この価格は、ギブソンで最も高いフラットトップのJ-200の約2倍もしたのですが、Rishawのマーケットを見る目は間違っていなかったようで、D-45の年間販売台数は、最も少ない1978年の40台から最も多い1979年の291台の間で推移し、マーチンの最高級ギターとしての地位を築き上げることになります。

 

 

  D-41の開発と70年代の新展開

D-45の復活には、Mike Longworthの持つ優れたインレイ加工技術が大きな役割を果たしたのですが、続いて彼は、D-35とD-45の中間的なギターであるD-41を考えます。Longworthがマーチンに来る前にギターの修理を行っていた頃、D-28にD-45スタイルのインレイを入れる際には、他の人の手に渡ったときに騙すことにならないように、D-28であることを示すスタンプには一切、手をつけないようにしていました。そして、D-41の試作を作る際にも、勝手にD-45にグレードアップ出来ないような工夫をします。D-45と違って、D-41では指板の1フレット目にインレイを付けずに、3フレットから付けるようにした上で、3フレット目のインレイをD-45の1フレットのインレイと大きさを同じにすることにしました。そうすることで、1フレットにD-45のインレイを付けたとしても、3フレット目と同じ大きさになってしまい、D-45と違うことがすぐにわかるようにしたのです。D-41は、1969年にD-35とD-45中間的な$800という価格で発売になり、D-45ほど大きな出費をせずにパールインレイが付いたギターが手に入ることになり、これまでのモデルの隙間を埋めるギターとして大きな役割を果たします。D-41は、発売後7年程度は、D-45の2倍から4倍の売り上げとなります。

 

1968年には、ギターブームの影響で、1930年代に行ったのと同様に、もう一度ファンブレイシングのクラシックギターを作ることにします。それが、マホガニーボディのN-10とローズウッドのN-20なのですが、木の象嵌作りのロゼットが入り、スケールも25.4インチになり、以前に作ったGシリーズよりも、伝統的なクラシックギターらしいデザインをしていました。このクラシックモデルは、初年度にN-10が265台、N-20が262台と順調な売り上げだったのですが、その後は徐々に衰退していきます。1960年代の終わりには、フォークブームも下火となり、その代わりに、ロック音楽の中にフォークの良さが取り入れられるようになります。クロスビー・スティルス・アンド・ナッシュの登場で、アコースティックとエレクトリックの垣根が取り払われ、1969年のヒット曲である“Suite: Judy Blue Eyes”の中では、ステファンスティルのアコースティックギターが前面に出ます。ギターはあまり見えないものの、彼らのアルバムのカバーにはD-28が写っており、1960年代初期のアコースティックギターブームの再来を予感させるものがありました。この頃までに、ギター市場では安価な輸入品に押されてKayやHarmonyなどのアメリカで長年続いてきたメーカーが撤退を余儀なくされるのですが、マーチンでもそんな傾向に対抗すべく、1970年に“シグマ”という輸入ブランドを出します。また、Frank MartinはボストンのVega Banjo Worksや、Fiber Drums Company、Darco String Co.などを買収し、1970年には事業規模を大きく広げます。マーチンでは、弦の市場について調査を行っていたのですが、Darcoの買収を機に、その設備を使った自社ブランドの弦の製造を初めて行います。また、1973年にはスゥエーデンのLevinギターも傘下に収めます。これらの新事業によって、Martin社全体の売り上げは急成長を遂げるのですが、ギターそのものの売り上げは平行線のままというのが実情でした。

 

 

  Mサイズの誕生とカッタウェイ

その後、海外ではオーストラリアや香港、シンガポールなどで販売代理店の強化を行い、アメリカ国内でもテーマパークの冠スポンサーになるなど、活発な展開を行います。同時期、ステファン・スティルスやニール・ヤングの影響で、ヴィンテージギターの興味が高まるのですが、マーチンでもそんな傾向を1960年代から認識しており、新たなギターをデザインする際には、ヘリンボーンのギターや12フレットモデル、スキャロップブレイシング・フォワードシフトのギターなどを強く意識していました。12フレットのドレッドノートギターについては、1954年にボストンのWurlitzerという会社がマーチンにD-28の12フレット仕様を注文し、その後も年に1、2台の注文を出していましたので、マーチンのブランドではないものの、既に復活していました。これらのギターは、特別仕様を意味するSがついた、D-28Sのラベルが貼られていました。その後、1962年にはWurlitzerの特別注文であることを示すために、D-28SWの表記になります。そして、1967年になって、マーチンの製造ラインにスタイル18、28と35の12フレットDサイズが加わり、発売後7年間程度は毎年100台以上を売り上げます(多い年は250台)。マーチンで、1970年代に新たなモデルのギターが誕生するのですが、そのギターは、1930年代から1940年代に作られたギターを1960年代にカスタマイズすることから生まれました。物語は1935年から1942年にかけて、248台生産された16インチ幅のローズウッドボディのアーチトップ、F-7とF-9から始まります。1965年頃、ニューヨークのMark Silberのギターショップに、壊れたF-7かF-9が持ち込まれ、トップをスプルースに交換してフラットトップにしてみたところ、意外にいい音がすることを発見します。その後、ショップで働いていたMatt Umanovが独立し、F-7やF-9の24.9インチのネックをDサイズ並みのロングネックに加工して、フラットトップとして提供することを行い、評判が高まります。そこで、マーチン社に0000サイズのフラットトップを提案するのですが、マーチンからは返答がなく、自分の店で、アーチトップをフラットトップに加工することを続けます。

 

MC-28
そして、1977年になってようやく、マーチンでも“M”と呼ばれる新しいサイズのギターを発売することになります。そのモデルは、ローズウッドで、指板とヘッドが縁取られ、サウンドホールの周囲がアバロンであり、装飾の仕方からすると中〜上位機種にあたります。アバロンリングは伝統的に30シリーズの特徴となっていたため、この新しいギターはM-38と分類されます。M-38の価格は$1200で、D-35とD-41の中間の価格にあたり、発売初年度に275台を販売します。この台数はD-28やD-35には及ばないものの、D-41を超える販売台数でした。1978年には、3ピースバックのM-35が発売となるのですが、26台を製造した後に、M-36と名前が変ります。そして、スタイル28も1981年に作られるのですが、形状がカッタウェイのMC-28として登場します。また、同じ年に、DサイズのカッタウェイであるDC-28も発売となります。このカッタウェイはサウンドホールが楕円形で、通常の20フレットでなく、22フレットの指板がつけられています。それは、Xブレイシングの特徴を生かすために、カッタウェイのカットされている部分でブレイシングが終ることなく、U字の上の部分までブレイシングを伸ばそうと考えたのですが、サウンドホールが円形だとブレイシングが出てしまうために、楕円形にしました。ところが、そうなると指板が短くなってしまい、22フレットに伸ばしたのが原因だと言われています。

その後、1985年には伝統的なスタイルである18と21にもMボディが採用され、メイプル材仕様のM-64とMC-68も加わります。M-36とM-38の販売は、1979年に300台を超えるものの、その後は年間40〜50台になってしまいます。それでもMシリーズのギターは作られていたのですが、1985年になって、Dサイズよりも薄かったボディをDサイズと同じにした、Jサイズ(Jumbo M)のギターとして再登場することになります。一方で、D-28にも、ヘリンボーントリム、スキャロップドブレイシング、シグザグバックストライプなどの戦前仕様が復活し、1976年に発売となったHD-28は初年度に500台を売り、1977年には1486台を売り上げるという、大きな成功を収めます。1990年代までにHD-28がベストセラーモデルとなる一方で、1978年にはD-35のヘリンボーンモデルが発売となるのですが、HD-28のような評判を得ることはできませんでした。1970年代の初頭にピークを迎えたギターの生産台数は、マーチンの従業員がストライキを行う1977年頃には、次第に低迷し始めていました。ポートランドセメントの発祥地であるナザレスに本拠を置く“地方セメント労働者組合”は、その頃、組合員が減り影響力が低下していたため、マーチンの従業員を加えて回復を図ろうと考えていました。そして、経営側が労働者の不満に対処しようとしないということで、従業員はストライキを行うことになります。ストの間、経営者も事務員も工場のラインで作業を行うことで、1日に6台程度のギターの生産を続けていましたが、弦の製造とシグマギターの輸入でなんとか、経営を続けていられたという状態でした。

 

 

 ソリッドボディのマーチン製エレキ

E-18 electric guitar

マーチンを組合化しようとする地方セメント労働組合の企ては失敗し、ストライキをしていた従業員も職場に復帰するのですが、キーボード楽器の発達と景気の後退で、ギター市場は急速な落ち込みを見せます。そんな厳しい時代の中、マーチンでは、エレクトリックギターで再挑戦することを決定します。1979年に発売になった新機種では、1830年代のシュタウファースタイルのマーチンを彷彿とさせるような渦巻き型のペグヘット形状を持たせ、ダブルカッタウェイのボディはメイプルの3ピースで、ローズウッドやクルミ材でストライプ模様を施していました。E-18($660)とEM-18($700)に加え、ベースギターであるEB-18($650)が発売となり、翌年には、板目のマホガニーを使ったE-28($1200)とベースギターのEB-28($1200)を発売します。1983年まで、ソリッドボディのギターに重点を置いており、最も売れたEM-18で年平均250台、EB-18も150台程度の売り上げとなったり、継続していれば成功する要素もあるという意見もあったのですが、その後、ソリッドボディのマーケットからは撤退することになります。また、その頃には、弦製造の部門を除いて、70年に買収した企業が経営上の重荷になっていたため、バンジョーのVegaやドラムのFibesを1979年に整理するのですが、これらの企業の負債は長い間、経営に重くのしかかることになります。ギターの販売はその後も低迷を続け、1979年頃になると従業員を週ごとのワークシェア的な勤務にしたり、ギターブームの頃に採用した中級から上級の管理職の多くをレイオフせざるを得ないような状態になります。1977年に10,000台だった(1971年の半分以下ですが、それでも悪くない数字でした)出荷台数は、1982年には3,153台にまで落ち込み、第2次世界大戦以来最低の数字となります。その結果、1982年6月15日の取締役会で社長の退任勧告が決議がされ、Frank Martinは49歳で退任することになります。(その後Frankはフロリダに移り、1993年のサンクスギビングの日に逝去します。)

 

Frank Martinの社長退任に伴い、長い間副社長の地位にあったHugh“Tigger”Bloomが社長となります。その頃、Chris Martinはマーチンに入ってまだ4年経っただけだったのですが、退任した社長の息子という社内での立場には微妙なものがあったようです。そして、1985年の取締役会の場で、会長であるC.F.Martin〓によって、Chrisがマーケティング担当副社長にすることが提案され承認されるのですが、Chris自身は、老いてゆく祖父の影響力がなくなったときの大きな不安を感じていました。そして、1986年6月15日、まだマーチンがギター販売の低迷に苦しんでいるとき、会社の精神的支柱とも言うべきC.F.Martin〓がこの世を去ります。その後、創始者の子孫として唯一マーチンで働いているChristian Federick Martin〓が、会社の経営を引き継ぐことになるのですが、実際には、事業継承はそう簡単なものではありませんでした。

 

 

 C.F.Martin, W

祖父が死んだとき、Chrisは28歳でした。取締役の中には社長のTiggerをCEO(最高経営責任者)にしようとする動きもあったのですが、C.F.MartinVの強い遺志が尊重され、Chrisが会長に選任される共に、CEOとなります。Chrisが3歳のとき両親が離婚し、彼は母親と共にニュージャージーやオハイオで過ごしており、夏休みの間だけナザレスで祖父と過ごすという環境だったため、父親と過ごした時間はほとんどないという状況でした。また、母親が再婚したときには、新たな父親の名字を名乗ったこともありました。そのため、子供の頃に家業であるギター作りに関わった経験は乏しく、鋸で木を切るときに木材を押す手伝いをしたり、弦の袋詰めをしたことがある程度でした。ほとんどのマーチン一族同様、Chrisも音楽の演奏経験はあまりありません。彼が11歳の時にはギターを習わされたこともあるのですが、キャンプの時にギターが弾けるようにいくつかのコードを覚える程度の興味しかなかったらしく、今でもギターよりもピアノ演奏に興味があるようです。

 

高校卒業後、ロスアンゼルスのUCLAに入学するのですが、大学での生活に迷いがあったのか、ナザレスに戻ってギター作りを本格的に学んでみることにします。工場での単純作業から始め、毎週、いろんな工程を経験してみた結果、自分が木工作業に向いていないことが分かり、大学での勉強を継続することを決意します。そして、1978年にボストン大学で経営学の学位を習得した後、間もなくマーチンに入社します。Chrisは、CEOになるために強い自信を示していたものの、高校時代の内向的な性格を気にして、自分自身はリーダーとしての資質に欠けていると感じており、突然CEOという立場になったことに対して戸惑いを感じていたようでした。しかし、社内で積極的に振舞えるような環境作りを行う前に、まずは会社を経営するという重要な責務が待ち受けていました。祖父の遺した資産を確定するため、所有している自社株の評価が必要だったのですが、そのためにも、まずは将来の事業計画を明確にすることが欠かせないことでした。そこで、これから5年間にわたって、年間7000台のギターを生産する事業目標を示すのですが、会計事務所の意見は、そのままでは倒産してしまうというものでした。

 

 

 苦境からの脱出

会計事務所の意見に衝撃を受けたChrisは、経営戦略を根本から見直し、Martinという会社が何なのかを定義し直すことに取り組みます。会議の席でChrisは、「我々は、フラットトップでスチール弦のアコースティックギターを作る企業であり、過去に評価されていたことをひとつひとつ地道に行っていこう」と表明します。そして、「我々は、全ての部署で絶え間ない改善を行うことによって、顧客の満足度と評価・競争力・市場占有率・利益の向上を実現させるべく、業務の質の向上を目指します」で始まる企業理念を作成します。これは、従業員に対して、ギターメーカーとして本来やるべきことに立ち戻った経営を行うことを明確に示したものでした。同時に、1985年頃から徐々にギター市場も回復の兆しを見せ始め、85年に7275台だった生産台数は86年に7600台、87年に8041台、90年には1万台を超えるようになります。Chrisによると、「全米ギター製作家協会に入って会議に参加したとき、昔のMartinギターのコピーモデルを作っている会員に対して、言いようのないうらやましさを感じた」と言います。Martinでは、1979年に“カスタムショップ”を設立し、かつて高い評価を得ていた仕様のギターを作る体勢はできていたのですが、注文は入ってきていませんでした。そこで、一例として黒のバインディングとスノウフレイクインレイの入ったOMモデルを宣伝したところ、徐々に注文が入り始めます。そして、1984年10月、これまでにない新たな仕様のギターを毎月作るという“Guitar of the Monthly”の企画を開始するのですが、年に4〜5種類の限定モデルを作るという内容に縮小して実施されます。その企画では、00-18V、D-18Vのようなヴィンテージ仕様(ネックも昔のVシェイ プ仕様)から、J-45Mデラックスのようなものすごく派手なギターまで作られ、内部にはC.F.MartinWのサインが入ったラベルが貼られていました。

 

Chrisは、CEOになる前から、マーチンの歴史に残るような斬新なモデルを作ってみたいと思っていたのですが、1980年に日本に旅したとき、あるアイデアが浮かびます。東京でブルーグラスのライブハウスに行って小柄な日本人がDサイズのギターを弾いているのを見て、帰国後、7/8サイズのドレッドノートをデザインし、子供や女性にも弾けるギターになるという確信を持ちます。そして、6ヵ月後に7/28Sというギターを日本に出荷するのですが、日本では「まるでオモチャだ」という評価しか受けず、完全な失敗作となります。

 

 

  Jサイズギターの登場

J-40M
1977年に登場したMサイズのギターについては、Chrisもバランスの良さを高く評価していたのですが、ボディの厚さをドレッドノート並みにしてみることを考えます。似た形態のギターとして、ギブソンがJ-200を出していることは分かっていたのですが、マーチンにはジャンボサイズはありませんでした。そこで、Mサイズのギターを元に試作してみたところ評判が良かったため、Mサイズをディープボディにした、“J(Jumbo)”サイズのギターを新たに作ることにします。そして、1985年には、J-40Mを筆頭に、J-21M、J-65M(メイプル)の他、12弦モデルとしてJ12-40MとJ12-65Mが発売となります(1990年からはMの表記がなくなります)。Jサイズのギターは完全な出来栄えかと思えたのですが、ドレッドノート強い愛着を持つ保守的なマーチンファンの心を捉えることはできませんでした。

 

しかし、Chris自身は「Jは私が作ったギターであり、いつか、私が会社で行った業績として歴史に残るような存在にしたい」と思っていたようです。J-40は初年度に259台を売り上げ、1990年代を通じて300台を少し超える程度の年間売り上げとなります。J-40BKという、シェイド(サンバースト)モデルを除いて最初となる黒い色付き塗装のモデルも1988年に加わり、年間50台ほど売り上げが伸びます。また、1987年にはカッタウェイモデルのJC-40も発売となり、年間100台程度売り上げに貢献します。しかし、マーチンの人気モデルであるHD-28とD-28は1990年代にそれぞれ、年間1,200台と1,100台程度を売り上げており、それらのモデルと比べると、主力のギターとは言えない状況でした。そして、1985年には、J・M・Dサイズに加え、MのカッタウェイモデルとJの12弦モデルという、5種類ものメイプルのギターを発表し、これまでメイプルをレギュラーモデルとして作ったことのなかったマーチンの伝統に挑戦します。その上、それらのギターには、これまでになかった60シリーズという新たな番号がつけられました。それらのギターの中では、J-65が最も売れるのですが、それでも1988年の91台が最高という結果に終ります。この経験からChrisが得た教訓は、「限定生産にして、製造台数が少なければ少ないほど、そのギターに対する消費者の興味は大きくなる。」というものでした。

 

 

 


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